第38任務部隊
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第38任務部隊 (Task Force 38) および第58任務部隊 (Task Force 58) とは、第二次世界大戦においてアメリカ海軍が主力にした空母部隊。
編制
第38任務部隊と第58任務部隊は同一部隊であるが、名称は、第3艦隊所属の場合に第38任務部隊、第5艦隊所属の場合に第58任務部隊と変更された。
歴史
1943年8月、空母「サラトガ」を中心としてフレデリック・シャーマン少将の指揮下で第38任務部隊が誕生した。1943年末、2つのタスクグループ(正規空母・軽空母5隻)でブーゲンビル島の攻略に従事[1]。
1944年1月6日、マーク・ミッチャー中将の指揮下で初めて第58任務部隊の名称が使用された。同年初旬、3つのタスクグループ(正規・軽空母9隻)でギルバート・マーシャル攻略に従事、トラック・パラオ空襲に従事[2]。1944年6月、4つのタスクグループ(正規・軽空母15隻)でマリアナ攻略に従事[3]。
1944年8月26日、第38任務部隊として、ウィリアム・ハルゼー大将の指揮する第三艦隊に所属した。同年末、4つのタスクグループ(正規・軽空母16隻)でレイテ島・ルソン島攻略に従事、台湾・南西諸島空襲に従事[4]。
日本が第38任務部隊と第58任務部隊が同一であると認識したのは1944年10月初旬のことで、11日に軍令部情報部が各艦に対して伝達した。その内容は、9月にフィリピンに来襲したのは第3艦隊所属の38TFであるとして、同TFは正規空母2隻、巡洋艦改造空母2隻を中心とする空母群の4群をもって編制されていること、空母総数は正規空母8隻、巡洋艦改造空母8-10隻がアメリカ海軍の全力であること、38TFと58TFの実体は同一部隊であり、所属艦隊に応じて部隊番号が変更されること、この部隊の背後に人員機材補充用の護衛空母が2-3隻随伴していることを知らせるものであった[5]。
1945年1月26日、第58任務部隊に変更。5つのタスクグループ(正規・軽空母18隻)で硫黄島・沖縄攻略に従事、日本本土空襲に従事(沖縄戦後は第38任務部隊として従事)[6]。1945年5月25日、第38任務部隊に変更。9月2日まで存続した。
脚注
関連項目
第38任務部隊
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「ジョン・S・マケイン・シニア」の記事における「第38任務部隊」の解説
1943年8月、マケインは海軍中将に昇進し、キングの「野望」の一つとして海軍作戦部内に創設された航空部の初代部長に就任し、キングは航空部の活動が軌道に乗るまでマケインを前線に出す気はなかった。この頃、アメリカ艦隊の再編成が行われ、中部太平洋方面部隊が創設された。この部隊は後に第5艦隊となり、レイモンド・スプルーアンス中将が率いていた。指揮下の機動部隊は第58任務部隊の司令官は当初、チャールズ・A・パウナル少将が率いていたが、パウナルはギルバート諸島の戦いなどで臆病の極みを見せて更迭され、後任にはマーク・ミッチャー中将が就任した。相前後してソロモン諸島の戦いもラバウルの孤立化をほぼ完成させて一段落し、ソロモン方面で指揮を執っていたウィリアム・ハルゼー大将は真珠湾に戻ってきていた。1944年5月、後に第3艦隊を率いるハルゼーとペアを組む機動部隊司令官の検討がなされたが、キングの一声によりマケインが司令官の座に就くこととなった。しかし、艦隊司令官の経験がなかったマケインは学習のため、マリアナ・パラオ諸島の戦いに参加して空母戦術の習得を行った。同年8月、予定通り第5艦隊は第3艦隊に代わったが、ミッチャーはマケインの任務部隊の総指揮を執る技量が未知数だったため、しばらくの間は例外的に第38任務部隊の指揮を執ることとなり、マケインは第38.1任務群を率いることとなった。 1944年10月、第38任務部隊は沖縄島、台湾を攻撃してフィリピンの戦いの露払いを行った。マケインの第38.1任務群は一連の攻撃を終え、10月22日夜にハルゼーの命令により休養と補給のためウルシー環礁に向かいつつあった。この2日前、レイテ島にアメリカ軍が上陸し、これを妨害するため日本艦隊が出撃した。10月24日、ハルゼーはマケインの第38.1任務群抜きで栗田健男中将の艦隊を攻撃し、戦艦武蔵を失った栗田艦隊は西航していった。これを見たハルゼーは、当面の撃破目標を北に発見した小沢治三郎中将率いる機動部隊とし、戦艦や巡洋艦、駆逐艦で構成された特別編成の第34任務部隊(ウィリス・A・リー中将)および3個任務群を機動部隊撃滅に急行させて、サンベルナルジノ海峡をがら空きにした。その間隙を突き、再び東航していた栗田艦隊が海峡を突破してサマール島近海でクリフトン・スプレイグ少将率いる護衛空母と駆逐艦、護衛駆逐艦からなる第77.4.3任務群(通称「タフィ3」)を攻撃。レイテ湾方面の敵勢力は第7艦隊(トーマス・C・キンケイド中将)指揮下の砲撃部隊で対処できると考えていたハルゼーだったが、キンケイドの泣き言に加え太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将からの「第34任務部隊はどこにいるか、世界が訝っている」の電文を受けショックを受け、空母部隊のうち1個任務群と第34任務部隊のうちの戦艦と軽巡洋艦、駆逐艦を南下させ、大急ぎで栗田艦隊攻撃を行うと同時に、マケインの第38.1任務群の休養を取り消して攻撃に加わらせた。もっとも、マケインは傍受した電文から独断で戦場に引き返していた。第38.1任務群はホーネット (USS Hornet, CV-12) 、ハンコック (USS Hancock, CV-19) 、ワスプ (USS Wasp, CV-18) の3空母からSB2C ヘルダイバーとTBF アヴェンジャーを繰り出し、退却する栗田艦隊に痛打を浴びせた。
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