中部太平洋
中部太平洋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 14:02 UTC 版)
「リッチモンド・K・ターナー」の記事における「中部太平洋」の解説
ターナーは、レイモンド・スプルーアンス中将(アナポリス1907年組)の要請により中部太平洋方面に転じた。激闘のソロモン戦線とは打って変わって、1943年中旬ごろまでの中部太平洋方面はあまり大きな戦いもなかったが、この方面を担当する第5艦隊が編成されてエセックス級航空母艦などの新鋭艦も第5艦隊に宛がわれ、有数の大艦隊となっていた。第5艦隊司令長官に就任したスプルーアンスではあったが、上陸部隊の指揮官の選考に悩んでいた。そこで目をつけたのが、知己であり海軍大学校の同僚だったターナーだった。スプルーアンスは無理を承知でニミッツにターナーの招聘を要請したところ承認され、また、キングとハルゼーの了解も得られたのでターナーは中部太平洋に転じることとなったのである。スプルーアンスはまた、ターナーの下での海兵隊指揮官にホーランド・M「マッド」・スミス海兵少将を要望して承認された。「テリブル(恐ろしい)・ターナー」と「マッド(狂人)・スミス」の組み合わせは、この時完成した。 ターナーは以後、1943年から1944年にはガルヴァニック作戦、クェゼリンの戦い、マリアナ・パラオ諸島の戦いで上陸戦の総指揮を執り、1945年も硫黄島の戦いと沖縄戦を指揮した。フィリピンの戦いのみはダグラス・マッカーサー陸軍大将とキンケイドの第7艦隊に部隊を預けていたため指揮を執っていない。上陸戦自体も、決して順調とはいえなかった。ガルヴァニック作戦中のマキンの戦いでは陸軍第27歩兵師団のレベルの低さから戦闘に時間がかかり、スミスとともにこれを批判した。続くクェゼリンの戦いでは、当初はスプルーアンス、スミスとともに攻略に反対したが、ニミッツが更迭カードをちらつかせたため黙らざるを得なかった。硫黄島の戦いの直前には一時体調を崩して周囲を心配させた。ターナーは1945年5月の第5艦隊と第3艦隊の交代時に戦線を去り、日本本土上陸のダウンフォール作戦でも指揮を執っただろうが、これは日本の降伏により実現しなかった。沖縄戦が、ターナー最後の戦闘となった。
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