ガルヴァニック作戦
ガルヴァニック作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 03:05 UTC 版)
「ギルバート諸島沖航空戦」の記事における「ガルヴァニック作戦」の解説
詳細は「ガルヴァニック作戦」を参照 1943年(昭和18年)8月、ソロモン諸島方面で日本軍を圧倒しつつあった連合国軍は、中部太平洋でも日本に対する本格的な反攻作戦に着手することにした。そして、その最初の攻略目標としてギルバート諸島(タラワ、マキン環礁)が選ばれ、作戦名は「ガルヴァニック作戦」と決定された。 ギルバート攻略部隊を支援するため、高速空母機動部隊である第50任務部隊(指揮官:チャールズ・A・パウナル少将)が投入されることになった。第50任務部隊は4群に分かれた大型正規空母6隻、軽空母5隻を中心とした艦隊で、搭載機は約660機に及んだ。一部はラバウル空襲を行って、ブーゲンビル島沖航空戦で日本軍航空隊の攻撃を撃退したばかりの艦隊である。その任務は、予想される日本軍の航空反撃から攻略船団を守るとともに、攻略目標のギルバート諸島を孤立化させ、さらに防御陣地を破壊することにあった。なお、第50任務部隊以外の空母戦力として、護衛空母5隻もガルヴァニック作戦に参加している。
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ガルヴァニック作戦
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「リスカム・ベイ (護衛空母)」の記事における「ガルヴァニック作戦」の解説
「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」および「ガルヴァニック作戦」も参照 西海岸沿いの訓練活動の後、リスカム・ベイは1943年(昭和18年)10月21日にカリフォルニア州サンディエゴを出航し、一週間後に真珠湾に到着した。追加の演習、運用訓練を完了すると最初の戦闘任務に就く。第24空母部隊の一部として11月10日に真珠湾を出航し、リッチモンド・K・ターナー少将(旗艦ペンシルベニア)指揮下の第52任務部隊と合流、ギルバート諸島に向かう(連合軍海軍部隊、戦闘序列)。ターナー提督とホーランド・スミス将軍は、マーシャル諸島に近いマキンの方に注意をむけており、真珠湾から来た北方攻撃部隊と第27歩兵師団(師団長ラルフ・スミス将軍)がマキン攻略を担当する。アメリカ海軍は、大型空母と軽空母を基幹とする複数の空母機動部隊を投入し、さらに本艦を含む護衛空母8隻も参加した。 太平洋中部ギルバート諸島におけるアメリカ軍の最初の大規模反撃は、11月20日の午前中に始まった(タラワ攻略戦、マキン攻略戦、アパママの戦い)。リスカム・ベイの艦載機部隊は2,278回の出撃を数え、敵飛行場に対する空爆により上陸部隊を支援した。アメリカ軍は1日でマキンを攻略する予定だったが、上陸部隊(第27師団)は日本兵の掃討に手間取り、11月23日になってやっとマキンを占領した。上陸部隊を支援するために連合軍海上部隊はマキン周辺海域に留まっており、このため伊175の攻撃に晒されることになった。
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