両軍の兵力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/04/14 06:45 UTC 版)
ローマ軍の兵力は2個ローマ軍・兵力10,000とイタリア同盟国軍18,000であった。騎兵はローマ重騎兵600、同盟国重騎兵1,800を有していた。加えて、イベリア諸部族の歩兵2,000および騎兵400があった。 ハスドルバルはリビア槍兵15,000、傭兵1,000(主としてリグリア兵)、イベリア兵8,000を有していた。カルタゴ軍騎兵兵力は、リビア/カルタゴ重騎兵450、イベリア重騎兵1,200、ヌミディア軽騎兵2,300であった。さらに、戦象20、投石兵1,000があった。
※この「両軍の兵力」の解説は、「デルトサの戦い」の解説の一部です。
「両軍の兵力」を含む「デルトサの戦い」の記事については、「デルトサの戦い」の概要を参照ください。
両軍の兵力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:14 UTC 版)
「シュラクサイ包囲戦 (紀元前397年)」の記事における「両軍の兵力」の解説
ヒミルコが紀元前397年にシケリアに向かった際の兵力は、陸兵50,000、三段櫂船400、輸送船600であり、パノルムスで現地兵(シケル人、シカニ人、エリミ人)30,000が合流した。カルタゴ軍がシュラクサイに到着したとき、軍船は208隻に減じていたが、陸軍に対する補給のために輸送船2,000隻が用いられた。シュラクサイ包囲に参加した兵力は、シケリア西部にも守備兵を残しているため、不明である。 ディオニュシオスは歩兵30,000と騎兵3,000を率いてカタナに進軍し、海軍は五段櫂船180隻を有していた。しかし、カタナ沖の海戦での敗北により、軍船は80隻に減じた。この損失を補うために傭兵を雇用し、またシュラクサイ市民も兵士となった。後半には30隻の三段櫂船がギリシア本土から加わった。
※この「両軍の兵力」の解説は、「シュラクサイ包囲戦 (紀元前397年)」の解説の一部です。
「両軍の兵力」を含む「シュラクサイ包囲戦 (紀元前397年)」の記事については、「シュラクサイ包囲戦 (紀元前397年)」の概要を参照ください。
両軍の兵力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 22:34 UTC 版)
日本軍(すべて海軍部隊) - 総兵力693人第3特別根拠地隊分遣隊 243人分遣隊長兼分隊長: 市河 海軍中尉付:井崎直 予備少尉 付:平間光 軍医中尉 第952航空隊基地員 60人飛行隊長:佐々木栄 少佐 軍医:森下幹夫 大尉 第802航空隊基地員 50人 第111設営隊 340人(主に軍属。うち朝鮮出身者200人) アメリカ軍 - 地上兵力6400人陸軍第27歩兵師団(英語版)(師団長・ラルフ・スミス(英語版) 少将)第165歩兵連隊(連隊長・ガーディナー・コンロイ大佐) 第193戦車大隊(大隊長・ジェラール・W・ケリー大佐) アメリカ軍支援艦隊についてはガルヴァニック作戦#戦闘序列を参照。
※この「両軍の兵力」の解説は、「マキンの戦い」の解説の一部です。
「両軍の兵力」を含む「マキンの戦い」の記事については、「マキンの戦い」の概要を参照ください。
両軍の兵力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 18:27 UTC 版)
官渡の戦いの兵力について『三国志』の陳寿が書いた本文部分には袁紹軍10万(騎兵1万)、曹操軍1万弱と書かれているが、これに対して『三国志』に注を付けた裴松之は疑問の声を上げている。その理由として、 曹操が旗揚げ時に既に5千の兵を持ち、その後に旧黄巾軍30万を降しているし、他にも数多くの勢力を併呑している。それからすると1万とは少なすぎる。 袁紹の軍10万に対して1万で数ヶ月に及んで対峙できるものであろうか? 諸書によれば、袁紹軍が崩壊した後に、袁紹軍の兵士8万を生き埋めにしたとあるが、1万足らずの兵士で、いかに混乱していたとはいえ8万人を捕縛できるとは思えない。 などを挙げている。曹操の軍略が優れていたということを誇張するために、曹操軍の兵士数を少なく記述したのではないかと、裴松之は推測している。『三国志』魏書国淵伝には、曹操軍が賊軍を破った場合、それを報告する上奏文では一を十と(10倍に)誇張して記載することがこの時代の通例となっていたともある。ただし台湾は三軍大学の『中国歴代戦争史』は、荀彧の「曹公の兵力は袁紹の十分の一に過ぎない」と言う手紙をそのまま載せており、袁紹軍や曹操軍の数については誇張とは言い切れない史料もある。 また、196年から屯田制を実施している曹操軍が1万の兵士が食べる食料を十分に用意できず、兵数が多く遠征軍である袁紹軍が食糧不足の心配をあまりしなかった、ということを疑問に挙げられることがあるが、これに関しては 董卓・李傕・曹操・笮融らが、官渡の戦いの時点での曹操の支配地(兗州・豫州・司隸・徐州)で虐殺・略奪を行っており、曹操の支配地は非常に荒廃していた。それに対し袁紹の本拠地である冀州は中国北部随一の豊かな州であった。 異民族を手懐ければ外からの脅威が薄い袁紹に対し、山西や南方にいまだ劉表・孫策・馬騰らが残り、迂闊に兵を割けない曹操軍の実情はかなり異なる。さらに戦前、劉備が徐州で曹操に対して反乱を起こしていることや、戦役中には袁家のお膝元である汝南でも反乱が起きたことさらに許昌周辺まで賊が侵入している事などから、電撃的に河南を制圧した曹操の治世への求心力は200年ではいまだ盤石ではないことが読み取れる。 などを考えると一概には言えず、定説を見ることは困難である。ちなみに後漢中期頃は、兗州・豫州・司隸・徐州(官渡の戦いの時の曹操支配地域)の合計人口は、冀州・青州・并州・幽州(官渡の戦いの時の袁紹支配地域)の合計人口よりも、多かったが、官渡の戦いの時点では相次ぐ戦乱のため後漢の戸籍人口は7分の1以下にまで減っていた。『三国志』 蔣済伝によれば、景初年間に蔣済は「魏の戸籍人口は後漢の(治安が安定していた)頃の大きな郡一つ分程度にすぎない」と語っている。「潁川は先帝(曹操)が兵を起こした地である。官渡の戦役では、周囲の地域は瓦解し、遠きも近きも形勢を観望していた中で、この郡だけは節義を守り、若くて丈夫な者は戈を担って戦い、老いて弱々しい者は兵糧を背負ってくれた」と「文帝紀」の曹丕の詔勅にあるように、曹操は内外にいまだ心服しない脅威を数多く抱えていたことも間違いなく、容易に大戦に兵力を動員できたとは考えづらい。 『三国志演義』では「曹操軍は十万、袁紹軍は七十余万」とされるが、そもそも当時の河北の人口がその倍程度しかないため[要出典]、創作である。
※この「両軍の兵力」の解説は、「官渡の戦い」の解説の一部です。
「両軍の兵力」を含む「官渡の戦い」の記事については、「官渡の戦い」の概要を参照ください。
両軍の兵力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/08 06:20 UTC 版)
スタニスワフ・ジュウキェフスキのもとでクルシノの戦いに参加したポーランド軍は6500人から6800 人で、うち5500人もしくは8割は、ポーランドのフサリア、いわゆる有翼重騎兵であった。対するドミトリー・シュイスキー、アンドレイ・ガリツィネ、ダニーロ・メゼツキー率いるロシア軍は約3万人、これに加えてヤコブ・デ・ラ・ガーディエ率いる傭兵約5000人がロシア側についていた。この傭兵隊には、フランドル、フランス、ドイツ、スペイン、イングランド、スコットランドとヨーロッパ各地の戦士が集っていた。なお、陣営に残っていたり遅参したりして先頭に参加しなかったものを含めると、ポーランド軍は総勢1万2300人、ロシア軍は4万8000人であった。カノン砲の数を見ると、ポーランド軍の2門(文献によっては4門)に対し、ロシア軍は11門を有していた。
※この「両軍の兵力」の解説は、「クルシノの戦い」の解説の一部です。
「両軍の兵力」を含む「クルシノの戦い」の記事については、「クルシノの戦い」の概要を参照ください。
両軍の兵力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:31 UTC 版)
「ニハーヴァンドの戦い」の記事における「両軍の兵力」の解説
アッバース時代のウラマー、歴史家で『諸使徒と諸王の歴史』を著したタバリーによると、ヤズデギルド3世の重臣のペーローズ・ホスロー(英語版)が率いるサーサーン朝軍は、イラン高原中からかき集められた約10万人。対するアラブ軍は約3万人だった。数で勝ったペルシア兵だったが兵の精強さでアラブ軍に劣り、山間の隘路で攻撃を受けて多くの兵を失った。
※この「両軍の兵力」の解説は、「ニハーヴァンドの戦い」の解説の一部です。
「両軍の兵力」を含む「ニハーヴァンドの戦い」の記事については、「ニハーヴァンドの戦い」の概要を参照ください。
両軍の兵力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 02:06 UTC 版)
江戸時代の幕府の顧問僧であった天海の目撃情報などに基づく。 両軍の規模上杉軍武田軍備考第一次 8,000人 10,000人 小競り合いにて終結。 第二次 8,000人 12,000人 膠着状態になり、今川義元の仲介にて、旭山城の破却と犀川を境として北を上杉領、南を武田領とすることで和睦。 第三次 10,000人 23,000人 足利義輝の仲介(御内書)にて和睦。晴信が信濃守護となる。 第四次 13,000人 20,000人 前半は上杉軍勝利、後半は武田軍勝利。武田方は武田信繁・諸角虎定・山本勘助など名立たる武将が討ち死にしているが、上杉方の主だった指揮官の犠牲はなし。ただし北信濃の地は武田が制圧。 第五次 ?人 ?人 両軍睨み合いのまま双方撤退。
※この「両軍の兵力」の解説は、「川中島の戦い」の解説の一部です。
「両軍の兵力」を含む「川中島の戦い」の記事については、「川中島の戦い」の概要を参照ください。
- 両軍の兵力のページへのリンク