両軍の勢力
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「アルデンホーフェンの戦い (1793年)」の記事における「両軍の勢力」の解説
勝敗を決した騎兵突撃はテシェン公が第31ラトゥール竜騎兵連隊(Latour)と第32エステルハージ・フザール連隊(Esterhazy)を率いて行ったものだった。ラヌーの軍勢は7個歩兵大隊、6個騎兵大隊、大砲12門で合計9千人だった。フランス軍は第3、4擲弾兵大隊、リエージュ大隊(Liège)、第14軽歩兵大隊、第2パリ国民衛兵大隊、第29歩兵連隊の2個大隊、第6、12軽騎兵大隊で構成された。ラヌーの副官の1人にアンリ・クリスチャン・ミシェル・ド・ステンゲル(英語版)がいた。
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両軍の勢力
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「リール包囲戦 (1792年)」の記事における「両軍の勢力」の解説
ラ・ボンネリーの駐留軍1万は第85歩兵連隊の2個大隊、第15、86、100歩兵連隊の1個大隊ずつ、第24、44、56、90歩兵連隊の兵站部、国民衛兵の1個大隊、国民衛兵の3個大隊の兵站部、第3、6騎兵連隊の兵站部で構成された。また包囲戦の最中に増援を受けた。シャルル・フランソワ・デュウー(英語版)は1792年夏以来リール駐留軍の指揮官だったが、包囲がはじまる直前にソワソンの軍営を統率するよう命じられた。彼はそれでも9月23日にリールに戻って指揮を執ろうとしたが、数日後に職務停止になり、パリへの出頭を命じられた。彼は命令に背いて、包囲戦が終わるまでリールに留まり、10月10日にようやくパリに到着した。彼は新聞で攻撃されたが、包囲戦の最中にリールを離れることは臆病な行為であるとして、自分を弁護した。 オーストリアの包囲軍は10.5個歩兵大隊、6個歩兵中隊、18個騎兵大隊で合計13,800人だった。攻城兵器は大砲、榴弾砲、臼砲合計52門だった。テシェン公はオーストリア軍を3手に分け、それぞれド・ラトゥール、フェルディナント・フリードリヒ・アウグスト・フォン・ヴュルテンベルク、ボーリューに指揮を任せた。ド・ラトゥールの部隊にはフランツ・クサーヴァー・フォン・ヴェンクハイム()の軍、すなわちレウフェン(Leeuven)とルソー(Rousseau)擲弾兵大隊、第33スタライ歩兵連隊(Sztáray)が含まれていた。ヴュルテンベルクの部隊はスタライの軍、すなわち第9クレルフェ歩兵連隊(Clerfayt)の第1大隊、第15アルトン歩兵連隊(Alton)の第2大隊、そしてピュックラー擲弾兵大隊(Pückler)が含まれていた。ボーリューの部隊はカール・フリードリヒ・フォン・ビーラ(ドイツ語版)の軍、すなわち第30リーニュ歩兵連隊(Ligne)の第1大隊、第55マレー歩兵連隊(Murray)の第1大隊、第57ヨーゼフ・コロレド歩兵連隊(Josef Colloredo)の第2大隊、オドンネル自由軍団(O'Donell)の4個中隊が含まれた。ルイ=フランソワ・ド・シヴァラール(フランス語版)は騎兵部隊を率いた。騎兵部隊は第16ブランケンシュタイン・フザール連隊(Blankenstein)の2個大隊、第31ラトゥール軽騎兵(英語版)連隊(Latour)の7個大隊が含まれていた。シャルル・ウジェーヌ・ド・ロレーヌは第30ヴルムザー・フザール連隊(Wurmser)の2個大隊、デゲルマン・ウーラン自由軍団(Degelmann)の6個大隊で構成された、2つ目の騎兵部隊を率いた。カール・フリードリヒ・フォン・リンデナウ(英語版)は工作隊とポンツーン建設工兵隊の1個大隊ずつを率いた。なお、上記のほかにも1個騎兵大隊と1.5個歩兵大隊がいた。
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両軍の勢力
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「ランダウ包囲戦 (1702年)」の記事における「両軍の勢力」の解説
バーデン=バーデン辺境伯の軍勢は歩兵41個大隊25,900人と騎兵71個大隊10,920人だった。帝国軍が辺境伯の軍勢の大部分を占め、歩兵11個大隊8,400人(マルシーリ(Marsigli)歩兵連隊から4個大隊、テュンゲン(Thüngen)歩兵連隊から2個大隊、バーデン(Baden)、バイロイト(Bayreuth)、フュルステンベルク(Fürstenberg)、オスナブリュック(Osnabrück)、ザルム(Salm)歩兵連隊から1個大隊ずつ)と騎兵48個大隊8,000人(カシュテル(Castell)、クサーニ(Cusani)、ダルムシュタット(Darmstadt)、グロンスフェルト(Gronsfelt)、ホーエンツォレルン(Hohenzollern)、ハノーファー(Hannover)、ツァンテ(Zante)胸甲騎兵連隊およびシュティルム(Styrum)竜騎兵連隊からの6個大隊ずつ)だった。その次に多いのがプファルツ選帝侯領の歩兵4,800人(アンズパッハ(Anspach)連隊の1個大隊、イーゼルバッハ(Iselbach)、リューベック(Lübeck)、ザクセン=マイニンゲン(Sachsen-Meiningen)連隊の2個大隊ずつ)と騎兵800人(ヴェーレン(Vehlen)とホフキルヒェン(Hofkirchen)胸甲騎兵連隊からの3個大隊ずつ)だった。 ヴュルツブルクの派遣軍は歩兵3,000人(ビブラ(Bibra)歩兵連隊の3個大隊とフフス(Fuchs)歩兵連隊の2個大隊)と騎兵800人(シャード(Schad)竜騎兵連隊の4個大隊)で、シュヴァーベン軍は歩兵3,500人(バーデン=バーデン(Baden-Baden、バーデン=ドゥルラハ(Baden-Durlach)、フュルステンベルク=メスキルヒ(Fürstenberg-Möskirch)、フュルステンベルク=シュテューリング(Fürstenberg-Stühling)、ライシャッハ(Reischach)歩兵連隊から1個大隊ずつ)と騎兵240人(ヴュルテンベルク(Württemberg)竜騎兵連隊の2個大隊)だった。オーバーライン・クライスの軍勢は歩兵2,400人(ブットラル(Buttlar)とナッサウ=ヴァイルブルク(Nassau-Weilburg)歩兵連隊から2個大隊ずつ)と騎兵360人(ダルムシュタット(Darmstadt)竜騎兵連隊の3個大隊)だった。マインツ選帝侯領の軍勢は歩兵2,400人(クーアマインツ(Kurmainz)とシュラッテンバッハ(Schrattenbach)歩兵連隊から2個大隊ずつ)と騎兵360人(ビブラ(Bibra)竜騎兵連隊の3個大隊)だった。ほかにもフランケン歩兵が1,400人おり(エルッファ(Erffa)とシュネーベリン(Schnebelin)歩兵連隊から1個大隊ずつ)、アンズパッハ(Anspach)、エッティンガー(Oettinger)、ヴュルテンベルク(Württemberg)近衛騎兵連隊からの1個大隊ずつもいた。 上記のリストは全ての帝国軍を含むわけではなかった。包囲軍をフランス軍の襲撃から防ぐべく、辺境伯は歩兵10個大隊と騎兵15個大隊をブランデンブルク=バイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストに委ねてラウテル川に派遣、ラシュタットには歩兵7個大隊と騎兵12個大隊を配置、オーバーラインには歩兵7個大隊と騎兵8個大隊を配置した。辺境伯の軍勢は6月までに歩兵3万2千と騎兵1万4千にまでなった。帝国軍の将官には辺境伯とともにスランカメンの戦いを戦ったハンス・カール・フォン・テュンゲン、ザクセン=マイニンゲン公ベルンハルト1世(英語版)、ヴュルテンベルク公カール・アレクサンダー、ナッサウ=ヴァイルブルク伯ヨハン・エルンスト(英語版)、フランツ・セバスティアン・フォン・テュルハイム、マクシミリアン・カール・アルブレヒト・フォン・レーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ロシェフォール(英語版)などがいた。 帝国軍の大軍に直面したカティナ元帥のフランス軍は後退したが、ランダウには王立砲兵隊の2個大隊を援軍として残した。ランダウの守備軍は72歳のメラク伯爵エゼキエル・デュ・マ(英語版)率いる歩兵4,095と騎兵240だった。メラクは当時1688年のプファルツ略奪での野蛮な破壊により悪名高かった。メラクの軍勢は砲手のほか、ネッタンクール(Nettancourt)歩兵連隊の2個大隊、サッレ(Sarre)、ブルボン(Bourbon)、ソワソネーズ(Soussonaise)歩兵連隊からの1個大隊ずつ、フォルサック(Forsac)騎兵連隊とメラク自由中隊からの2個大隊ずつもいた。自由中隊は敵軍からの脱走者で構成されていた。メラクの副官はレスペロー准将(l'Esperoux)で、歩兵の指揮官はダミニー准将(d'Amigny)、砲兵の指揮官はデュ・ブロイ(du Breuil)、工兵の指揮官はヴィラール(Villars)、冠堡の指揮官はコローム中佐(Colomes)だった。要塞が包囲された後、休暇中の士官たちは包囲を潜り抜けて要塞内の部隊と合流しようとした。5月18日、ゲスケ准将(Guesques)とネッタンクール大佐(Nettancourt)は城門のすぐ外でプファルツ騎兵に捕らえられた。一方、ダミニーは平民に変装して6月16日に入城した。ネッタンクールが捕虜になったため、ネッタンクール連隊はゴルネー大佐(Gournay)が指揮した。
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