両軍の対峙
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10日の晩頭、頼長が宇治から上洛して白河北殿に入った。謀反人の烙印を押された頼長は、挙兵の正当性を得るために崇徳を担ぐことを決意したと見られる。白河北殿には貴族では崇徳の側近である藤原教長や頼長の母方の縁者である藤原盛憲・経憲の兄弟、武士では平家弘・源為国・源為義・平忠正(清盛の叔父)・源頼憲などが集結する。武士は崇徳の従者である家弘・為国を除くと、為義と忠正が忠実の家人、頼憲が摂関家領多田荘の荘官でいずれも忠実・頼長と主従関係にあった。崇徳陣営の武士は摂関家の私兵集団に限定され、兵力は甚だ弱小で劣勢は明白だった。崇徳は今は亡き忠盛が重仁親王の後見だったことから、清盛が味方になることに一縷の望みをかけたが、重仁の乳母・池禅尼は崇徳方の敗北を予測して、子の頼盛に清盛と協力することを命じた(『愚管抄』)。白河北殿では軍議が開かれ、源為義は高松殿への夜襲を献策する。頼長はこれを斥けて、信実率いる興福寺の悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した。 これに対して後白河・守仁陣営も、崇徳上皇の動きを「これ日来の風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記』7月10日条)として武士を動員する。高松殿は警備していた源義朝・源義康に加え、平清盛・源頼政・源重成・源季実・平信兼・平維繁が続々と召集され、「軍、雲霞の如し」(『兵範記』7月10日条)と軍兵で埋め尽くされた。同日、忠通・基実父子も参入している。なお『愚管抄』『保元物語』『帝王編年記』には公卿が次々に参内したと記されているが、『兵範記』7月11日条には「公卿ならびに近将不参」とあり、旧頼長派の内大臣・徳大寺実能が軍勢出撃後に姿を現しただけである。大半の公卿は鳥羽法皇の服喪を口実に出仕せず、情勢を静観していたと推測される。 清盛と義朝は天皇の御前に呼び出され作戦を奏上した後、出撃の準備に入った。『愚管抄』によれば信西・義朝が先制攻撃を強硬に主張したのに対して、忠通が逡巡していたが押し切られたという。
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両軍の対峙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/28 06:20 UTC 版)
冬の寒さと春の雪解けの間、戦闘は小康状態にあった。この時間を利用して、グダニスク市のマグナートは4月、ドイツ傭兵ハンス・ヴィンケルブルッフと契約した。ヴィンケルブルッフ軍がトチェフ近くのルビエシュフまで進軍してきた時、ポーランド軍はハンガリー人・ワラキア人が中心の歩兵1000人と1300騎の騎兵しかいなかった。対する傭兵軍はランツクネヒト3100人、ライター騎兵400騎、そのほかの兵を合わせて1万から1万2000人の大軍であり、さらには7門の大砲とウォーワゴンに載せた30門の軽砲も持ってきていた。ヴィンケルブルッフ軍の接近を知ったザボロウスキは、100人の歩兵をトチェフに残して残り全軍でロキトキからモトワヴァ川を渡った。ヴィンケルブルッフはポーランド軍の動きを妨害するため200人の部隊を送り出すとともに、こちらからもモトワヴァ川を渡ってポーランド軍に側面攻撃をかけるように軍を動かした。ザボロウスキは騎兵2部隊を差し向けてこの敵の動きを阻止しようとしたが失敗し、ヴィンケルブルッフ軍は渡河に成功した。左翼側から迫る敵を止められないと知ったザボロウスキは、ロキトキの橋を破壊した後、全軍で西進しルビエシュフ湖のヴィンケルブルッフ軍の元に向かった。
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