1961年10月の外交事件とは? わかりやすく解説

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1961年10月の外交事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 08:54 UTC 版)

チェックポイント・チャーリー」の記事における「1961年10月の外交事件」の解説

検問所運用開始されてから2か月後の1961年10月チェックポイント・チャーリー起こった米ソ両軍の対峙は、後に「米ソ最初で最後直接武力対決舞台と言われた(ベルリン危機英語版))。 米英仏ソの連合軍4か国は、1945年ポツダム会談において、「4か国の関係者は、ベルリンのどの地区においてもドイツ警官によるパスポートチェック受けず移動できる」という合意お互いに取り交わしており、東ベルリン当局にもマリノフスキー・ソ連国防相から直々にソ連許可なしに境界線において何も変更してならない」と通達出していた。しかし、1961年10月東ベルリン当局はこの合意無視し東側警備隊から西側文民公務員対し身分証明書提示求めようになった。これは、10月17日ソ連共産党第22回大会フルシチョフ首相ウルブリヒト東独第一書記事前に何の相談もなく年末までに東ドイツとの平和条約を結ぶとの主張取り下げたことにたいする抗議であったウルブリヒト同年8月壁の建設による西ベルリン孤立化住民士気阻喪後押しし東ベルリン支配強化し8月の壁建設勝利を確実なものにするためには、何としても平和条約が必要と考えていた。これがフルシチョフに容れられなかったため、独断実力行使踏み切ったものであった10月22日西ベルリン駐在アラン・ライトナー公使ドロシー夫人東ベルリンでのチェコスロバキア実験的劇団公演を見るため、チェックポイント・チャーリー通過した際に身分証明書提示要求され拒否したライトナー公使は「ソ連の代表を呼べ」と警備隊押し問答の末に、夫人下してから、強行手段で車を動かして「我々の往来する権利証明する」ために車を検問所東側入れたりした。 そこへ武装した米兵と4両の戦車現れて、戦車後方のままで米兵援護しながら、ライトナー公使警備兵対峙した:268-276。やがてソ連軍政治顧問代理ラザレフ大佐到着し東ドイツ振る舞い陳謝したが、一方で武装米兵ソ連管理地域への侵入について憤然と抗議した深夜になる頃には双方冷静に収まってライトナー公使の車は引き返した。この22日事件はすぐに新聞などで話題になったが、報告受けたケネディは「ライトナーをあそこに駐在させているのは、東ベルリン観劇に行くためではない。」と苛立っていた。しかもこの行動にはケネディが壁建設後現地対応のために派遣したルシアス・D・クレイ陸軍大将意図働いていたことにラスク国務長官苦り切っていた。しかし、ラスククレイアメリカ側武装及び非武装での護衛付き境界線での探り行動をすることを許可した10月25日米軍憲兵隊士官2人民間人服装をして公用車ナンバープレート付けた車で検問所現れた。警備隊旗を振って合図して停車させると車は引き返したが、今度護衛伴って現れ検問所訪れた。再び引き返す今度米軍戦車登場し米国側は再三わたって自国外交権示威した。翌26日以降示威行動繰り返し:27727日文民公務員の車を兵士護衛して東ベルリン入り込んだ。この時、念のため戦車歩兵部隊とともに近隣のテンペルホーフ基地事前に送っていたが、東ベルリン側の態度特段挑発的なものではなかったため、安心した米軍午後4時45分引き返し後方待機していた戦車帰還した。 ところがこの直後ソ連T-54国籍マークはずされてあったので、米軍最初東ドイツ戦車かも知れない思ったという)が33台、ブランデンブルク門出動した。これらの戦車のうち10台がフリードリヒ通り進みチェックポイント・チャーリー米ソ境界線まで50 - 100メートルのところで停止した米軍慌てて撤収した戦車反転させて、境界線までソ連軍戦車とほぼ同じ距離の位置まで進めた午後6時頃にチェックポイント・チャーリー挟んで両軍戦車対峙した。この状況現場で取材中の西側記者目撃してワシントンポスト紙記者は「世界最大強国である二つ大国軍隊が、史上初め直接敵対的対決向かい合ったと書いた。 その後両軍互いに同数戦車増援させ、最終的に互いに20両の戦車現場動員したベルリン駐在米軍は全将兵6500人が警戒態勢入った英仏両国即座に応援態勢をとり、仏軍3000人の兵士全員兵舎待機させ、英軍ブランデンブルク門近く550メートルほどの地点対戦車砲配備し武装パトロール隊を有刺鉄線によるバリケード間際まで進出させた。 クレイ大将は、もし東側がこの行動に対してフリードリッヒ通り全面的遮断対抗してきた場合ベルリンの壁一部破壊する実力行使に出る旨を国務省宛て送っており、ノースタッドNATO最高司令官とワトソン・ベルリン駐在米軍司令官承認していた。しかしラスク国務長官撤退命令出したラスク今回の行動は「ベルリンに入る権利強硬手段訴えるほどの決定的権益ではない。壁の構築容認したのも同じ理由からである。我々はこの事実お互い率直に受け入れなければならない。」としてこれ以上行動認めなかった。 しかしこの時期ケネディは、ベルリン問題同盟国間でもドゴール仏大統領ともアデナウアー西独首相意見の相違があって調整苦しんでいた時期であり、チェックポイント・チャーリーのような小さな検問所でのトラブルリスク冒す余裕はなかった。 一方フルシチョフはまだソ連共産党大会の期間で、壁の建設でのケネディシグナルから米国これ以上行動に出ることは無いと確信していた。コーネフ元帥報告聞いて、「戦争なんて起こる訳はない」と語ったケネディフルシチョフベルリン米軍部隊本部東側検問所ソ連軍司令官アナトリー・グリブコフ将軍への直通回線)を経由して秘密裏連絡取り緊張状態緩和させることで合意したケネディは、ソ連側先に戦車を引くという条件引き換えに、以後ベルリン市内におけるソ連側行動について大目に見よう提案したソ連側はこれを外交上の勝利受け止めケネディ申し出承諾した10月28日10時30分ソ連軍戦車チェックポイント・チャーリーから引き揚げ始めた30分後に米軍戦車撤退開始し、およそ18時間ぶりに両軍の対峙解かれた。撤退同時にラスク米国長官ベルリン電報送りこれまでの武装護衛あるいは兵士警護による境界線通過試み中止文民公務員当分の間東側への通行禁止軍人通過する場合全員公用車制服着用の義務付け厳格に守るように指示した。そして「当該地点においてこれ以上行動はしない。」と念を押した事態エスカレートされたクレイ大将は、翌1962年5月本国召還された。またフルシチョフ米・東独間の平和条約締結案を正式に取り下げたうえで、ウルブリヒトに対しては「特にベルリンにおいて、状況悪化させるような行動は避けよ」と改めてくぎを刺した

※この「1961年10月の外交事件」の解説は、「チェックポイント・チャーリー」の解説の一部です。
「1961年10月の外交事件」を含む「チェックポイント・チャーリー」の記事については、「チェックポイント・チャーリー」の概要を参照ください。

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