1961年10月の外交事件
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「チェックポイント・チャーリー」の記事における「1961年10月の外交事件」の解説
検問所の運用が開始されてから2か月後の1961年10月、チェックポイント・チャーリーで起こった米ソ両軍の対峙は、後に「米ソの最初で最後の直接武力対決の舞台」と言われた(ベルリン危機(英語版))。 米英仏ソの連合軍4か国は、1945年のポツダム会談において、「4か国の関係者は、ベルリンのどの地区においてもドイツの警官によるパスポートのチェックを受けずに移動できる」という合意をお互いに取り交わしており、東ベルリン当局にもマリノフスキー・ソ連国防相から直々に「ソ連の許可なしに境界線において何も変更してはならない」と通達を出していた。しかし、1961年10月、東ベルリン当局はこの合意を無視し、東側警備隊から西側の文民公務員に対し身分証明書の提示を求めるようになった。これは、10月17日のソ連共産党第22回大会でフルシチョフ首相がウルブリヒト東独第一書記に事前に何の相談もなく年末までに東ドイツとの平和条約を結ぶとの主張を取り下げたことにたいする抗議であった。ウルブリヒトは同年8月の壁の建設による西ベルリンの孤立化と住民の士気を阻喪を後押しし、東ベルリンの支配を強化し8月の壁建設の勝利を確実なものにするためには、何としても平和条約が必要と考えていた。これがフルシチョフに容れられなかったため、独断で実力行使に踏み切ったものであった。 10月22日、西ベルリン駐在のアラン・ライトナー米公使とドロシー夫人は東ベルリンでのチェコスロバキアの実験的劇団の公演を見るため、チェックポイント・チャーリーを通過した際に身分証明書の提示を要求されて拒否した。ライトナー公使は「ソ連の代表を呼べ」と警備隊と押し問答の末に、夫人を下してから、強行手段で車を動かして「我々の往来する権利を証明する」ために車を検問所の東側に入れたりした。 そこへ武装した米兵と4両の戦車が現れて、戦車は後方のままで米兵が援護しながら、ライトナー公使は警備兵と対峙した:268-276。やがてソ連軍政治顧問代理ラザレフ大佐が到着し、東ドイツの振る舞いに陳謝したが、一方で武装米兵のソ連管理地域への侵入について憤然と抗議した。深夜になる頃には双方冷静に収まって、ライトナー公使の車は引き返した。この22日の事件はすぐに新聞などで話題になったが、報告を受けたケネディは「ライトナーをあそこに駐在させているのは、東ベルリンへ観劇に行くためではない。」と苛立っていた。しかもこの行動にはケネディが壁建設後に現地対応のために派遣したルシアス・D・クレイ陸軍大将の意図が働いていたことにラスク国務長官は苦り切っていた。しかし、ラスクはクレイにアメリカ側の武装及び非武装での護衛付きで境界線での探り行動をすることを許可した。 10月25日、米軍憲兵隊の士官2人が民間人の服装をして公用車のナンバープレートを付けた車で、検問所に現れた。警備隊が旗を振って合図して停車させると車は引き返したが、今度は護衛を伴って現れて検問所を訪れた。再び引き返すと今度は米軍の戦車が登場し、米国側は再三にわたって自国の外交権を示威した。翌26日以降も示威行動を繰り返し:277、27日も文民公務員の車を兵士が護衛して東ベルリンに入り込んだ。この時、念のために戦車を歩兵部隊とともに近隣のテンペルホーフ基地へ事前に送っていたが、東ベルリン側の態度は特段挑発的なものではなかったため、安心した米軍は午後4時45分に引き返し、後方で待機していた戦車も帰還した。 ところがこの直後、ソ連のT-54(国籍マークがはずされてあったので、米軍は最初は東ドイツの戦車かも知れないと思ったという)が33台、ブランデンブルク門へ出動した。これらの戦車のうち10台がフリードリヒ通りを進み、チェックポイント・チャーリーの米ソ境界線まで50 - 100メートルのところで停止した。米軍は慌てて撤収した戦車を反転させて、境界線までソ連軍戦車とほぼ同じ距離の位置まで進めた。午後6時頃にチェックポイント・チャーリーを挟んで両軍の戦車は対峙した。この状況を現場で取材中の西側記者が目撃して、ワシントンポスト紙の記者は「世界最大の強国である二つの大国の軍隊が、史上初めて直接の敵対的対決で向かい合った」と書いた。 その後、両軍は互いに同数の戦車を増援させ、最終的には互いに20両の戦車を現場に動員した。ベルリン駐在の米軍は全将兵6500人が警戒態勢に入った。英仏両国も即座に応援態勢をとり、仏軍は3000人の兵士全員を兵舎に待機させ、英軍はブランデンブルク門近く550メートルほどの地点に対戦車砲を配備し、武装パトロール隊を有刺鉄線によるバリケードの間際まで進出させた。 クレイ大将は、もし東側がこの行動に対してフリードリッヒ通りを全面的遮断で対抗してきた場合はベルリンの壁の一部を破壊する実力行使に出る旨を国務省宛てに送っており、ノースタッドNATO軍最高司令官とワトソン・ベルリン駐在米軍司令官も承認していた。しかしラスク国務長官は撤退命令を出した。ラスクは今回の行動は「ベルリンに入る権利は強硬手段に訴えるほどの決定的権益ではない。壁の構築を容認したのも同じ理由からである。我々はこの事実をお互い率直に受け入れなければならない。」としてこれ以上の行動を認めなかった。 しかしこの時期のケネディは、ベルリン問題で同盟国間でもドゴール仏大統領ともアデナウアー西独首相と意見の相違があって調整に苦しんでいた時期であり、チェックポイント・チャーリーのような小さな検問所でのトラブルでリスクを冒す余裕はなかった。 一方フルシチョフはまだソ連共産党大会の期間で、壁の建設でのケネディのシグナルから米国がこれ以上の行動に出ることは無いと確信していた。コーネフ元帥の報告を聞いて、「戦争なんて起こる訳はない」と語った。 ケネディとフルシチョフはベルリンの米軍部隊本部と東側の検問所(ソ連軍司令官アナトリー・グリブコフ将軍への直通回線)を経由して秘密裏に連絡を取り、緊張状態を緩和させることで合意した。ケネディは、ソ連側が先に戦車を引くという条件と引き換えに、以後ベルリン市内におけるソ連側の行動について大目に見ようと提案した。ソ連側はこれを外交上の勝利と受け止め、ケネディの申し出を承諾した。 10月28日、10時30分にソ連軍戦車がチェックポイント・チャーリーから引き揚げ始めた。30分後に米軍戦車も撤退を開始し、およそ18時間ぶりに両軍の対峙は解かれた。撤退と同時にラスク米国務長官はベルリンに電報を送り、これまでの武装護衛あるいは兵士の警護による境界線通過の試みの中止、文民公務員の当分の間の東側への通行を禁止、軍人が通過する場合は全員が公用車で制服着用の義務付けを厳格に守るように指示した。そして「当該地点においてこれ以上の行動はしない。」と念を押した。事態をエスカレートされたクレイ大将は、翌1962年5月に本国に召還された。またフルシチョフも米・東独間の平和条約締結案を正式に取り下げたうえで、ウルブリヒトに対しては「特にベルリンにおいて、状況を悪化させるような行動は避けよ」と改めてくぎを刺した。
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