1961年 - MVアグスタがワークス活動を停止、ホンダとスズキが全戦参戦、ヤマハが第3戦から参戦、デグナーが亡命
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「ロードレース世界選手権の沿革」の記事における「1961年 - MVアグスタがワークス活動を停止、ホンダとスズキが全戦参戦、ヤマハが第3戦から参戦、デグナーが亡命」の解説
1961年1月15日、MVアグスタが今シーズンからワークス活動を停止すると発表した。ワークス活動停止理由については様々な憶測がなされていたが、その中には「ホンダの猛襲から逃げた」というものまであった。MVアグスタはワークス活動停止の理由として1シーズンに開催されるレースの回数の多さを挙げている。1シーズン6戦に戻すように主張していたにもかかわらず、FIMが今シーズンから10戦に増やしたことを理由としている。当時の道路整備状況下でのトラックによるヨーロッパ各地への長距離移動を伴う転戦の大変さが背景にあると推察される。MVアグスタは、ワークス活動は停止するがプライベートライダーへの支援は続けることも表明している。また次のような言葉も残している。「私たちは2644回の優勝と36回のライダー選手権獲得、19回のメーカー選手権獲得を為し遂げた。この記録を打ち破るようなメーカーが現れたなら、その時は即座にワークス活動を再開する」(MVアグスタ) 日本メーカーの動向は、今シーズンからホンダとスズキが250ccクラスと125ccクラスの全戦11戦に参戦する。そして、ヤマハも1961年に250ccクラスと125ccクラスに参戦することを発表し、第3戦フランスGP(クレルモン=フェラン)からロードレース世界選手権(WGP)の一員になる。今シーズンの結果は、250ccクラスでは、ホンダRC162を駆るマイク・ヘイルウッドが第4戦イギリスGP/マン島TTでホンダの250ccに初勝利をもたらし、世界チャンピオンになる。また、高橋国光が第2戦西ドイツGP(ホッケンハイム)で優勝し、WGPで日本人が初めて優勝する。ホンダを駆る6人のライダーがランキング1位 - 5位、10位を占め、ヤマハを駆る伊藤史朗が9位になる。125ccクラスでは、ホンダを駆るトム・フィリスが第1戦スペインGP(モンジュイック)で優勝し、ホンダにWGP初勝利をもたらす。以後、トムはエルンスト・デグナー(MZ)と競り合い、2ポイント差で世界チャンピオンになる。ホンダを駆る6人のライダーがランキング1位、3位 - 6位、9位になる(6位のマイク・ヘイルウッドはEMCでも125ccクラスを走る)。ホンダは今シーズン、3種類のマシンを投入した。第1戦スペインGPではトム・フィリスは昨シーズン型(1960年型)のRC143を駆り優勝、第4戦イギリスGP/マン島TTではマイク・ヘイルウッドが今シーズン型のRC144を駆り優勝。しかし、RC144はエンジントラブルが多発したため、シーズン後半にRC143の後継機である2RC143を投入する。2RC143はRC144よりも活躍した。ホンダが第4戦イギリスGP/マン島TTの250ccクラスと125ccクラスの両クラスで優勝したことについて、本田宗一郎は次のように語っている。「私がオートバイを始めてから持ちつづけた《夢》、それは日本人の独創によってつくったマシンでレースに勝つことであった。(省略)。この勝利は本田技研の勝利でなく、日本の皆さんとともに喜んでいただくとともに、希望を与えたものだと深く感謝している」(本田宗一郎) 今シーズンは、ホンダを駆るライダーが250ccクラスと125ccクラスで世界チャンピオンになり、ホンダに初めて世界タイトルをもたらす。マン島TTでの2クラス制覇はヨーロッパのバイク雑誌でも大きく取り上げられ、ホンダのエンジンは、「まるで時計のようだ」「独創的な設計、性能は極めて優秀」「ホンダはついに世界最高の製品にその名を連ねた」と評された。
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