ワークス活動
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1980年代初頭、aykはワークス活動を積極的に行なっており、ワークスドライバーは各地のレースで無敵を誇った。白地に青のワークスカラーはラジコン少年たちには憧れの的であった。 主なワークスの状況 1979年にはすでにワークスチームが存在。いちむらGC最終戦(第6戦)にRX2000を投入したが、プライベートチーム(モア・レーシング)に所属の三瓶剛、井達六男選手のRX1200タイプIIに敗れた。両名は翌年からワークスチーム入り。 1980年9月に東京の大井競馬場駐車場で初めて開催された全日本では、ワークスの三瓶剛選手が発売直後のRX3000のパーツで改良したRX2000で優勝した。ジュニアの部では、松村兼志選手(同じくRX2000)が優勝した。この年の関東選手権では、山本茂選手が優勝。 1981年の全日本では、RX3000を使用した井達六男選手がワークスの石原直樹選手を押さえ優勝した(井達選手はこのときプライベーター、翌年世界選手権選考会から再びワークス入り)。 1982年の全日本では、アメリカで開催された第1回世界選手権帰りの石原直樹選手が優勝。ベストラップは山本茂選手。いちむらGCは飛田勇選手がチャンピオン。 1983年は、サイクロンでワークス活動を行っていたが、開発が頓挫し、全日本にはEXL480Kで参戦したが、京商のファントムや無限精機のK2-Xスピリット、アソシのRC-12i等の台頭により惨敗。 1984年にはワークスはNX101やその改造マシンを使用していた。ペガサスという試作モデルも存在した。この年の全日本では、堀正宏選手(ワークスという説あり)のNX101が優勝(順位は2位、優勝はジョエル・ジョンソン)。ワークスの三瓶剛選手が3位となった。この年末、山本茂選手が退社。 1985年は前年9月に発売となったCX4WDiクアトロを投入。速さが戻ってきたが、ビッグタイトルはなし。 1986年の全日本選手権関東地区予選ではワークスの浜田公司選手が1位通過し、全日本では優勝が期待されたが、電気系のセットミスにより優勝できなかった。 1987年には前年に発表されたCRXパーセックを振り分けバッテリ、リヤにボールサス仕様としたプロトタイプで全日本選手権のファイナルに進出し、飯田裕之選手が6位に入賞した。7位は翌年のチャンピオンの野本利浩選手がパーセックで入賞。 1988年にはプライベーターの野本利浩選手(スーパーパーセック)が優勝した。 1989年は野本利浩選手(スーパーパーセックSE)が15位に。 全日本選手権1/12電動レーシングチャンピオン 1980年度 - 三瓶剛(RX2000改) 1981年度 - 井達六男(RX3000) 1982年度 - 石原直樹(RX3000EXL480) 1984年度 - 堀正宏(NX101) 1988年度 - 野本利浩(Super Parsec) 多くのワークス経験者はラジコン業界に貢献している。 渡辺龍郎(HPI USA社長) 飯田裕之(現HPI) 愛沢隆志(現無限精機) 真田幸治(現無限精機) 北出次雄(現(有)ナック) 武田訓政(無限精機K2-Xspirit設計、トドロキロードエース設計) その他ワークスドライバ 山本茂 飛田勇 佐原輝夫 大滝二郎 浜田公司(退社後はトミーへ) 忍田圭 栗本隆 松村晃志 また、ATS Racing Unitというジュニアチームも存在した。(ATS=Aoyagi Technical Service)
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