ワークス活動の再開(1988年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 14:45 UTC 版)
「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「ワークス活動の再開(1988年)」の解説
1988年1月15日、ダイムラー・ベンツはモータースポーツへの復帰を公表した。これに伴い、同社のモータースポーツ部門全般の代表としてヨッヘン・ニアパッシュが任命された。ダイムラー・ベンツはザウバーへのエンジン供給を正式な活動として承認し、ザウバーのレース活動に資金援助をすることも可能となった。 ワークス体制となったことで、エントリー名は正式に「ザウバー・メルセデス」に改められ、1988年シーズンからは世界選手権にフル参戦を開始した。 この年はミシュランのタイヤトラブルに翻弄されることになり、開幕前テストからタイヤ起因と考えられる不具合が発生し、解決できないままル・マンに挑むこととなった。5月末のル・マン24時間レースでは、予選でまたしてもタイヤトラブルが発生し、ミシュランのエンジニアと原因を探ったものの特定には至らなかったため、大事を取って決勝レースへの参戦は見送った。 ル・マンこそ不本意な結果となったが、選手権では強さを発揮し始め、全11戦中5勝を収め、9戦でポールポジションを獲得した。大量ポイントが得られるル・マンを棄権したことが響き、チームタイトル争いはジャガーに敗れてランキング2位となったものの、互角の戦いを演じ、最終戦ではザウバーとしては同選手権で初となる1-2フィニッシュを飾り、次シーズンに期待を残す年となった。 ダイムラー・ベンツの参画による変化 ワークス体制となってダイムラー・ベンツが最初に手を付けたのは、テレメトリーシステムの導入である。これはダイムラー・ベンツでは1978年に試験車両のC111-IIIを開発する際に導入と開発を始めたもので、走行中の車両からその時の走行速度、前後横方向のG、エンジンの状況、サスペンションの変位、タイヤの情報といった、車体の主だったデータをピットに電波で送ることができるシステムである。この点では1987年からC9が「エンジンマネジメントシステム」であるMP1.7モトロニックシステムを搭載していたことも好都合となり、このシステムはチームを大いに助けることとなる。 前年末でザウバーとイヴ・サン=ローランとの契約期間が終了したことから、ダイムラー・ベンツグループの電機メーカーであるAEGが新たなスポンサーとなり、C9のカラーリングは前年の青(ダークブルー)から黒に変更された。イヴ・サン=ローランとの契約終了により、ザウバーはそのままでは撤退の危機にあったのだが、ダイムラー・ベンツのワークス活動として支援が受けられるようになったことで、継続参戦が可能となり、その投資によってザウバーの本拠地のあるヒンウィル(英語版)に近代的なファクトリーが新築され、設備は一新された。 人員面では、1987年時点でザウバーは常勤のおよそ12名とパートタイムのエンジニアがいるのみの小規模な開発体制だったが、徐々に増員され、1990年には50名規模にまで拡大し、本格的な開発体制が構築された。これに加えて、ダイムラー・ベンツのウンターテュルクハイムでは100名のエンジニアがザウバー用のエンジン開発に従事するようになった。 ダイムラー・ベンツは資金援助やエンジン開発などの支援を充実させた一方で、現場への介入は行わず、車体開発とチーム運営は引き続きザウバーに一任した。
※この「ワークス活動の再開(1988年)」の解説は、「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の解説の一部です。
「ワークス活動の再開(1988年)」を含む「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事については、「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の概要を参照ください。
- ワークス活動の再開のページへのリンク