モータースポーツ活動再開、ルマン復帰(1985年 - 1991年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 14:45 UTC 版)
「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「モータースポーツ活動再開、ルマン復帰(1985年 - 1991年)」の解説
1950年代以前に一時代を築いたメルセデス・ベンツは1955年にレース活動から撤退して以降、1980年代に至るまで30年に渡る沈黙を保っていた。スイスのレーシングカーコンストラクターであるザウバーとの間に生まれた協力関係から、1985年から彼らへのエンジン供給がひっそりと始まった。やがて、ダイムラー・ベンツの取締役会はモータースポーツ活動への復帰を正式に承認し、1988年から「メルセデス・ベンツ」の名の下でレース活動が再開される。1989年には銀色のボディをまとったザウバー・C9が登場し、「シルバーアロー」が34年ぶりにサーキットに戻った。 1985年乗用車開発部門の権限で、スイスのレーシングカーコンストラクター「ザウバー」へのエンジン供給を非公式に開始する。メルセデス・ベンツエンジンを搭載したザウバー・C8は6月のル・マン24時間レースでデビューを果たす。しかし、予選で宙を舞うクラッシュを起こしたため出場を断念し、この年はその後もレース参戦を見送る。(→#ザウバー・メルセデス誕生) 1986年グループA仕様の190E 2.3-16(W201)でドイツツーリングカー選手権(DTM)への参戦を開始する。(→#グループA) メルセデス・ベンツエンジンを搭載したザウバーが世界スポーツプロトタイプカー選手権に参戦を始め、8月に開催された第7戦ニュルブルクリンク1000㎞レースで初優勝をあげる(ドライバーはマイク・サックウェルとアンリ・ペスカロロ)。これはメルセデス・ベンツエンジン搭載車としても1955年以来の世界選手権レースでの勝利となった。(→#31年ぶりの勝利) 1987年9月1日、ブライトシュベルトに代わり、エツァルト・ロイターがダイムラー・ベンツの取締役会会長に就任する。ロイターはダイムラー・ベンツの分社化を進め、これにより乗用車部門の「メルセデス・ベンツ」が確固たるアイデンティティを示すための方策として、自動車レースへの正式な復帰が後押しされる流れとなる。(→#動き出すダイムラー・ベンツ) 1988年1月12日、ダイムラー・ベンツの取締役会において、モータースポーツに復帰する決定が下される。 1月15日、モータースポーツに復帰することを発表し、グループC(ザウバー)とグループA(DTM)の活動を正式に自社のモータースポーツ活動として認め、この年から「ザウバー・メルセデス」として参戦を始まる。(→#ワークス活動の再開) 6月、ル・マン24時間レースの予選でタイヤがパンクするトラブルが起き、原因を特定できなかったため、ザウバー・メルセデスは安全面を考慮して同レースを棄権した。 1989年4月、この年の世界スポーツプロトタイプカー選手権の開幕戦の開催地である鈴鹿サーキットに、ザウバー・メルセデスはシルバーのカラーリングが施されたザウバー・C9を持ち込み、前触れなく「シルバーアロー」が復活する。 6月、ル・マン24時間レースでザウバー・メルセデスが総合優勝する(ドライバーはヨッヘン・マス、マヌエル・ロイター、スタンレー・ディケンズ)。 6月29日、ダイムラー・ベンツで組織再編が行われ、ダイムラー・ベンツ社は持株会社となり、その下に乗用車部門の子会社として「メルセデス・ベンツ社」(Mercedes-Benz AG、初代)が設立される(1997年に再統合)。 9月、ザウバー・メルセデスが世界スポーツプロトタイプカー選手権でチームタイトルを獲得する。 11月9日、ベルリンの壁が崩壊する。 1990年ザウバー・メルセデスの車両名にこの年から「メルセデス・ベンツ」を冠し、「メルセデス・ベンツ・C11」を投入する。(→#C11の登場と「シルバーアロー」の連覇) ザウバー・メルセデスがジュニアチームを設立し、カール・ヴェンドリンガー、ハインツ=ハラルド・フレンツェン、ミハエル・シューマッハの3名を育成ドライバーとする。(→#ジュニアドライバープログラム) 10月、メルセデス・ベンツとAMGが協力協定に署名する 10月3日、東ドイツ(ドイツ民主共和国)が西ドイツに編入される形で、ドイツの再統一が果たされる。 1991年前年まで苦戦が続いていたDTMで、190E 2.5-16エヴォリューションIIを投入したこの年は常に上位を争い、ドライバーズタイトルは逸したが、マニュファクチャラーズタイトルを獲得した。 11月26日、ダイムラー・ベンツがスポーツカー世界選手権からの撤退を決定する。 11月28日、メルセデス・ベンツがスポーツカー世界選手権からの撤退を発表する。同時に、密かに進めていたF1参戦計画を撤回し、F1参戦しない旨を正式に声明する。(→#F1復帰に至る経緯)メルセデス・ベンツのモータースポーツ部門の責任者だったヨッヘン・ニアパッシュはこの決定に反発して同社を去り、ノルベルト・ハウグが後任となる。 1992年DTMでマニュファクチャラーズタイトルを連覇し、ドライバーズ選手権ではクラウス・ルートヴィッヒがメルセデス・ベンツとしては初のDTMドライバーズチャンピオンとなった。 1993年1月、ヘルムート・ヴェルナーがメルセデス・ベンツ社の社長に就任する(1997年1月まで在任)。先代のニーファーと同じくモータースポーツ推進派のヴェルナーは、アメリカのレースに参戦することを企図する。 3月、ザウバーがF1参戦を始める。資金提供を行っていたことから、ザウバーの車両C12のエンジンカバーには「Concept by Mercedes-Benz」が掲示される。 10月29日、メルセデス・ベンツ社とイルモアがF1用エンジンとインディカー用エンジンの製造開発についての契約を結ぶ。 11月3日、メルセデス・ベンツ社はそれまでゼネラルモーターズが持っていたイルモア株を買い取り、イルモアの発行済み株式の25%を取得した。
※この「モータースポーツ活動再開、ルマン復帰(1985年 - 1991年)」の解説は、「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の解説の一部です。
「モータースポーツ活動再開、ルマン復帰(1985年 - 1991年)」を含む「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事については、「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の概要を参照ください。
- モータースポーツ活動再開、ルマン復帰のページへのリンク