C11の登場と「シルバーアロー」の連覇(1990年)
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「C11の登場と「シルバーアロー」の連覇(1990年)」の解説
1990年シーズンに投入されたC11から、車両名に「メルセデス・ベンツ」が冠されるようになった。チーム名は「ザウバー・メルセデス」のままで運営体制も変化はなく、同選手権では「チームタイトル」はあっても、F1の「コンストラクターズタイトル」やWRCの「マニュファクチャラーズタイトル(英語版)」のような車両の製造者に掛けられたタイトルは存在しないため、選手権上の扱いではこの変更は意味を持たなかったが、ボディ各所には前年までと異なり「Sauber Mercedes」ではなく「Mercedes-Benz」と書かれるようになり、メルセデス・ベンツによる関与がより前面に打ち出される形になった。 チームはこのシーズンも席巻し、9戦中8勝、5回の1-2フィニッシュを遂げ、チームとドライバーの両タイトルを連覇した。シートを分け合って参戦したジュニアドライバーの3名は除いて、レギュラーの3名でドライバーズランキングの上位3位を独占した。チームランキングで2位のジャガーに倍以上、ドライバーズランキングで4位のアンディ・ウォレス(ジャガー)に対してレギュラードライバーの3名全員が倍近くのポイント差を付けるほどの圧勝だった。 世界スポーツプロトタイプカー選手権を統括するFISAと、ル・マン24時間レースの主催団体であるフランス西部自動車クラブ(ACO)との間で前年から発生していた対立の結果、この年のル・マン24時間レースも選手権外のレースという扱いになり、前年優勝チームのメルセデス・ベンツは「世界選手権を優先する」として、欠場した。 C11の開発 詳細は「メルセデス・ベンツ・C11」を参照 C9はタイトルを獲得したが、元をたどれば1983年のC7の設計に改良を重ねてきた車両であり、そのコンセプトはすでにかなり古いものであった。ダイムラー・ベンツの支援を得られるようになったことで、レオ・レスはC9以前で予算の制約から断念していた新機軸を新型車のC11で取り入れていくこととなる。 1988年からダイムラー・ベンツのワークス体制となったことで、C11の開発にあたって同社の総力を結集することが可能となり、ルティガー・フォールやかつてのC111の開発メンバーが招集され、様々なアイデアが提出された。 C9の分厚いフロントノーズ部がドラッグを生んでいることが指摘され、レスもそのことは以前から気づいていたが、1985年ル・マンの時のように宙を舞うことがないよう、安全面を考慮して保守的にデザインするしかない箇所だった。C9までは、ダイムラー・ベンツのジンデルフィンゲン工場にある1/5スケールモデル用の古い風洞と、ウンターテュルクハイム本社施設の1/1風洞を使って作業していたが、これは煩雑な作業を伴うため、最高時速400㎞で走るレーシングカーの今後の空力開発にはムービングベルトを備えた風洞は不可欠と思われた。この調査にはダイムラー・ベンツの力が使われ、スイスの軍用施設に、ムービングベルトを備え、かつ30%スケールモデルを使用可能な風洞があることが判明し、C11の開発に活用された。こうした開発により、C11の空力性能はC9/89と比べて20%向上した。 C9開発時にレスが希望したカーボンファイバー製のモノコックは予算的には導入可能となり、ダイムラー・ベンツによるワークス体制となった時に、レスはカーボンファイバーコンポジットの研究予算を何よりも先に申請した。製造には専門的な技術が必要となるため、専門家のフランク・コパック(英語版)を雇い、ザウバーは新たにカーボンファイバーコンポジットの設計製造部門を社内に設けた。ザウバー内に成型用のオートクレーブなどの設備はまだなかったため、C11用モノコックの設計はザウバー内で行いつつ、製作はデビット・プライスとフィル・シャープによって設立された専門会社のDPS社に外注した。 カーボンモノコックの導入により、C11の車体はC9と比べてはるかに高剛性で、かつ非常に軽量に仕上がり、技術規則が定める最低重量の900㎏を下回るため、バラストの配置に自由度が生まれ、重量バランスの調整が容易になった。しかし、C11は本来は1989年の投入を目指して開発されていたが、そうした進歩を実現するため、カーボンモノコックの設計ミスにより、投入が1年遅れることにもなった。 エンジンはM119HLを改良し、ボッシュのECUがMP1.8に更新されたことで、より綿密な制御が可能となった。 タイヤはミシュランには見切りを付け、前年ザウバー・メルセデスが唯一勝てなかったディジョンのレースで優れた働きを見せていたグッドイヤーに注目して、新たに契約を結んだ。 ジュニアチームの創設 この年、ニアパッシュの発案により、メルセデス・ベンツのジュニアチームが作られ、カール・ヴェンドリンガー、ハインツ=ハラルド・フレンツェン、ミハエル・シューマッハの3名が選ばれた(→#ジュニアドライバープログラム)。 この3名はザウバー・メルセデスの1台を任され、交代で「教官役」のヨッヘン・マスとペアを組み、1990年の各レースに参戦することとなる。彼らのチームはザウバーのスタッフからは「Learners」(見習い)の意味で「Lチーム」と呼ばれた。3名の中で最も有望視されたのはフレンツェンだったが、9月のドニントンに参戦したのみでジュニアチームから離脱した。2年目となる1991年はヴェンドリンガーとシューマッハの2名がコンビとなって甲乙つけがたい走りを見せ、最終戦では2名とも力走を見せ、ベテラン組でも果たせなかった、この年チーム唯一の優勝を挙げることとなる。
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