C11の登場と「シルバーアロー」の連覇とは? わかりやすく解説

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C11の登場と「シルバーアロー」の連覇(1990年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 14:45 UTC 版)

モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「C11の登場と「シルバーアロー」の連覇(1990年)」の解説

1990年シーズン投入されC11から、車両名に「メルセデス・ベンツ」が冠されるようになったチーム名は「ザウバー・メルセデス」のままで運営体制変化はなく、同選手権では「チームタイトル」はあっても、F1の「コンストラクターズタイトル」やWRCの「マニュファクチャラーズタイトル英語版)」のような車両製造者掛けられタイトル存在しないため、選手権上の扱いではこの変更は意味を持たなかったが、ボディ各所には前年までと異なりSauber MercedesではなくMercedes-Benzと書かれるようになり、メルセデス・ベンツによる関与がより前面打ち出される形になったチームはこのシーズン席巻し、9戦中8勝、5回の1-2フィニッシュ遂げチームとドライバーの両タイトル連覇したシート分け合って参戦したジュニアドライバーの3名は除いてレギュラーの3名でドライバーズランキングの上3位独占したチームランキング2位ジャガーに倍以上、ドライバーズランキングで4位のアンディ・ウォレスジャガーに対してレギュラードライバーの3名全員が倍近くポイント差を付けるほどの圧勝だった。 世界スポーツプロトタイプカー選手権統括するFISAと、ル・マン24時間レース主催団体であるフランス西部自動車クラブACO)との間で前年から発生していた対立結果この年ル・マン24時間レース選手権外のレースという扱いになり、前年優勝チームメルセデス・ベンツは「世界選手権優先する」として、欠場したC11開発 詳細は「メルセデス・ベンツ・C11」を参照 C9タイトル獲得したが、元をたどれば1983年のC7の設計改良重ねてきた車両であり、そのコンセプトはすでにかなり古いものであったダイムラー・ベンツ支援得られるようになったことで、レオ・レスC9以前予算制約から断念していた新機軸新型車のC11取り入れていくこととなる。 1988年からダイムラー・ベンツワークス体制となったことで、C11開発にあたって同社総力結集することが可能となり、ルティガー・フォールやかつてのC111の開発メンバー招集され様々なアイデア提出された。 C9分厚いフロントノーズ部がドラッグ生んでいることが指摘されレスそのこと以前から気づいていたが、1985年ル・マン時のように宙を舞うとがないよう、安全面考慮して保守的にデザインするしかない箇所だった。C9までは、ダイムラー・ベンツジンデルフィンゲン工場にある1/5スケールモデル用の古い風洞と、ウンターテュルクハイム本社施設1/1風洞使って作業していたが、これは煩雑な作業伴うため、最高時速400で走るレーシングカー今後空力開発にはムービングベルトを備えた風洞不可欠思われた。この調査にはダイムラー・ベンツの力が使われスイス軍用施設に、ムービングベルトを備え、かつ30%スケールモデル使用可能な風洞があることが判明しC11開発活用された。こうした開発により、C11空力性能はC9/89と比べて20%向上したC9開発時にレス希望したカーボンファイバー製のモノコック予算的には導入可能となり、ダイムラー・ベンツによるワークス体制となった時にレスはカーボンファイバーコンポジットの研究予算何よりも先に申請した製造には専門的な技術が必要となるため、専門家のフランク・コパック(英語版)を雇いザウバー新たにカーボンファイバーコンポジットの設計製造部門社内設けたザウバー内に成型用のオートクレーブなどの設備はまだなかったため、C11モノコック設計ザウバー内で行いつつ、製作はデビット・プライスとフィル・シャープによって設立され専門会社DPS社に外注した。 カーボンモノコック導入により、C11車体C9比べてはるかに剛性で、かつ非常に軽量に仕上がり技術規則定める最低重量900下回るため、バラスト配置自由度生まれ重量バランス調整容易になった。しかし、C11は本来は1989年投入目指し開発されていたが、そうした進歩実現するため、カーボンモノコック設計ミスにより、投入1年遅れることにもなった。 エンジンはM119HLを改良しボッシュECUがMP1.8に更新されたことで、より綿密な制御が可能となったタイヤミシュランには見切り付け前年ザウバー・メルセデス唯一勝てなかったディジョンレース優れた働き見せていたグッドイヤー注目して新たに契約結んだジュニアチーム創設 この年、ニアパッシュの発案により、メルセデス・ベンツジュニアチーム作られカール・ヴェンドリンガーハインツ=ハラルド・フレンツェンミハエル・シューマッハの3名が選ばれた(→#ジュニアドライバープログラム)。 この3名はザウバー・メルセデスの1台を任され交代で「教官役」のヨッヘン・マスペア組み1990年の各レース参戦することとなる。彼らのチームザウバースタッフからは「Learners」(見習いの意味で「Lチーム」と呼ばれた。3名の中で最も有望視されたのはフレンツェンだったが、9月のドニントンに参戦したのみでジュニアチームから離脱した2年目となる1991年はヴェンドリンガーとシューマッハの2名がコンビとなって甲乙つけがたい走り見せ最終戦では2名とも力走見せベテラン組でも果たせなかった、この年チーム唯一の優勝挙げることとなる。

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C11の再登場元々の計画では、スポーツカー世界選手権は、1991年から排気量3,500ccの自然吸気エンジンを搭載したグループC「新規定」の車両のみで争われるようになるはずだった。しかし、それだけでは参加台数を確保できないと判断したFISAは、前年までの旧規定の車両を「カテゴリーC2」車両として参加させることを認めた。「C2」の車両には、新規定車である「C1」の車両以上に活躍してしまわないよう、最低重量や燃料の使用量などでハンデが課されていたため、ザウバー・メルセデスは当初、選手権の「短距離」レースでC11を使用する予定はなかった。しかし、C291の開発が思ったように進まなかったために、序盤戦ではシュレッサーとマスが組んだベテラン組は万全を期して旧型のC11を使用し、ヴェンドリンガーとシューマッハの「Lチーム」は新型のC291を使用するという布陣になった。C291は選手権の500㎞弱で争われるレース用に開発されているため、ル・マン24時間レースの距離には対応しておらず、ザウバー・メルセデスはル・マンの決勝レースは3台のC11で戦った。これは当初から予定されていたもので、レオ・レスはル・マンのために1991年もC11の開発をC291と並行して行った。戦闘力は健在でル・マンの予選では最速タイムを記録したものの、カテゴリーC1規定の車両を優先する規則のため、決勝は11番手からスタートした。終盤までレースをリードしたものの、最後はエンジントラブルによりリタイアしている。撤退

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