ザウバー・メルセデス
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メルセデス・ベンツエンジンを搭載するため、レスはC7を手直しする形で1985年用車両としてザウバー・C8を開発した。同時に、フルタイムのデザイナーを必要としたペーター・ザウバーから誘われ、1985年にはBMWからザウバーに移り、正式にチームの一員となった。 完成したC8はトラブルに悩まされ、1985年のル・マン24時間レースでは練習走行で宙を舞う事故を起こし、チームは棄権を余儀なくされた。翌年は改良を施したC8で世界スポーツプロトタイプカー選手権に臨んだ。初期トラブルこそ解消されたものの、ポルシェ・962Cや先進的なジャガー・XJR-6などのライバルと比べて性能面で大きく劣っており、その差は容易には縮められそうになかった。 そんな中、同年8月のニュルブルクリンク1000km(英語版)では、雨のレースで他チームが棄権したことと、C8を駆るマイク・サックウェルの力走もあってザウバー・メルセデスは初勝利を手にした。これはメルセデス・ベンツとしてはサーキットレースの世界選手権では1955年以来、31年ぶりとなる重要な勝利となった。 1987年 - 1988年 翌1987年に投入したザウバー・C9はトラブルは多かったものの、速さの点では他チームと上位を争うことも可能となった。それまでザウバーへのエンジン供給はダイムラー・ベンツとしては非公式なものだったが、上位争いを始めたザウバーの活躍は徐々にダイムラー・ベンツ中枢の関心を引き付けるようになっていった。そうして、1988年1月に同社取締役会はモータースポーツへの復帰を決定し、ザウバーへの関与も同年からは正式なものとした。 ダイムラー・ベンツは資金や人員面のバックアップを充実させた一方で、レスを中心とした開発体制そのものには干渉せず、レスはそれまで資金面で断念していた改良をC9に施すことも可能となった。この変化はレース戦績にも大きな改善をもたらし、1988年の世界スポーツプロトタイプカー選手権では、ザウバー・メルセデスチームは全11戦中5勝を挙げ、僅差でジャガーに敗れたものの、タイトル獲得まであと一歩のところまで迫った。 1989年・タイトル獲得とル・マン24時間レース優勝 1989年、チームは銀色に塗装されたC9で同年の選手権に挑み、全8戦中7勝する圧勝で、初の選手権タイトルを獲得した。この年に変更されたのは塗装だけではなく、エンジンもC8以来使っていたM117HL(英語版)から、より強力なM119HL(英語版)に換装し、これは1989年型C9の強力な武器となった。 レスは選手権のレース距離500km弱の短距離レースで優位性があることは前年に自信を持っていたため、この年はル・マン用のローダウンフォース仕様の開発に重点的に取り組んだ。それもあってC9はこの年のル・マン24時間レースも席巻し、1-2フィニッシュで制覇した。 1990年・タイトル連覇 翌1990年、レスは、C9以前で予算の制約から断念していたカーボンモノコックなどの新機軸を取り入れ、完全な新型車であるメルセデス・ベンツ・C11を完成させた。同車は完全なワークス体制下で開発された車両で、空力面などについてダイムラー・ベンツからの知見や協力を得て開発された。C11を擁したザウバー・メルセデスは前年に遜色のない圧勝劇を繰り返し、この年の全9戦中8勝を収め、5回の1-2フィニッシュを遂げた、 1991年・撤退 レスは1991年に向けてメルセデス・ベンツ・C291を開発したが、バンク角180度のV型12気筒のM291エンジンを採用したことで多くのトラブルに悩まされることとなり、チームは低迷した。 レスは雪辱を期してC292の開発を進めたが、ダイムラー・ベンツの経営上の事情により、1991年をもってメルセデス・ベンツはスポーツカーレースから撤退した。
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