1985年から
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 23:46 UTC 版)
「クリーブランド・ブラウンズ」の記事における「1985年から」の解説
1985年、ブラウンズはマイアミ大学のQB、バーニー・コーザーをサプルメンタルドラフトで獲得した。コーザーはシーズン半ばにはゲイリー・ダニエルソンから先発の座を奪った。コーザーは先発した6試合中4試合で勝利をあげ、若いRBアーネスト・バイナー、ケビン・マックは共に1000ヤードラッシャーとなった。8勝8敗であったが地区優勝を果たしプレーオフに出場した。マイアミ・ドルフィンズとのディビジョナルプレーオフでは一時21-3とリードしたが後半に入るとダン・マリーノ率いるドルフィンズのオフェンスにタッチダウン3本を返されて21-24で逆転負けを喫した。1985年から1989年にかけてチームは5年連続プレーオフに出場したがうち3回はデンバー・ブロンコスにAFCチャンピオンシップゲームで敗れた。 1986年にはコーザーがパスを3854ヤード投げ、ディフェンスからは5人(チップ・バンクス、ハンフォード・ディクソン、ボブ・ゴーリック、クレイ・マシューズ・ジュニア、フランク・ミニフィールド)がプロボウルに選出される活躍を見せてAFCトップの12勝4敗でプレーオフでのホームフィールドアドバンテージを確保した。ニューヨーク・ジェッツとのディビジョナルプレーオフでは残り4分で10-20とリードされ第3ダウン残り24ヤードのピンチとなったがマーク・ギャスティノーのラフィング・ザ・パッサーの反則により、ファーストダウンを更新、その後ケビン・マックがTDラン、ジェッツの攻撃を3回でディフェンスが止めて、タイムアウトなしの残り51秒にはコーザーからウェブスター・スローターへのパスが通り、残り7秒でマーク・モーズリー が同点FGをあげて試合はイオーバータイムに突入した。オーバータイムに入りモーズリーはFGを1本ミスしたが、ダブルオーバータイムの末、再びモーズリーに出番が回り決勝FGが決まりブラウンズが勝利した。ブロンコスとのAFCチャンピオンシップゲームでは残り5分11秒で相手オフェンスに対して自陣2ヤードからの攻撃を強いたが、ジョン・エルウェイの後にザ・ドライブと呼ばれるプレーで同点にされオーバータイムに相手キッカー、リッチ・カーリスのFGが決まりシーズンを終えた。 1987年もコーザーは3000ヤード以上を投げ、タッチダウンパス22本を通した。プロボウルにはコーザー、マック、ディクソン、ゴーリック、ミニフィールド、マシューズ、WRのジェラルド・マクニール、オフェンスラインのCody Risienが選ばれた。10勝5敗でシーズンを終えたチームはディビジョナルプレーオフでインディアナポリス・コルツを38-21で破り2年連続ブロンコスとAFCチャンピオンシップゲームで対戦した。ハーフタイムで3-21とリードを許したが第3Qにはコーザーからアーネスト・バイナー、レジー・ランホーンへのTDパスが通り、第4Q初めにはウェブスター・スローターへの4ヤードのTDパスが決まり試合は31-31と振り出しに戻った。ブロンコスはサミー・ワインダーがあげたTDで再びリードしたが5分弱の時間が残されておりブラウンズは残り1分12秒で敵陣8ヤードまで前進し、アーネスト・バイナーにボールを持たせてオープンに走らせた。このプレイ(ザ・ファンブルと呼ばれるようになった。)でバイナーは相手選手のヒットを受けてファンブルしてしまった。その後、ブロンコスは意図的にセイフティで失点し、ブラウンズは33-38で敗れた。 1988年はコーザーがカンザスシティ・チーフスとの開幕戦で負傷、その怪我が原因でシーズン後半を欠場した。コーザーが先発した試合は6勝3敗で、他のQBが先発した試合は4勝3敗、最終週に吹雪の中、地元クリーブランドで行われたヒューストン・オイラーズ戦に勝利して10勝6敗で終えてワイルドカードによりプレーオフに出場した。プレーオフはオイラーズとホームでの再戦であったが先発QBのドン・ストロックが負傷退場後にマイク・ペイゲルが登場しタッチダウンで追いすがったものの、最後オンサイドキック3回のチャンス(オイラーズに反則があったため蹴り直しがされた。)をものにできず23-24で敗れた。この試合を最後にマーティ・ショッテンハイマーヘッドコーチはチームを去りカンザスシティ・チーフスのヘッドコーチとなり、後任にはバド・カーソンが就任した。 1989年、怪我から復帰したコーザーが全16試合に先発出場した。チームは7勝3敗から引き分けを含み3連敗してプレーオフ出場が危ぶまれたが最後の2試合に勝利し9勝6敗1分で終わり9勝7敗となった同地区のオイラーズ、スティーラーズを抑え地区優勝を果たした。プレーオフではバッファロー・ビルズと対戦、ジム・ケリーが試合最後のプレイでTDを狙ったパスをクレイ・マシューズがインターセプトし34-30で勝利した。ブロンコスとのAFCチャンピオンシップゲームでは終始リードを許し21-37で敗れた。 1990年にはコーザーがデビューして初めてインターセプト数(15)がタッチダウン数(10)より多い数字に終わり、ラッシングオフェンスはリーグ最下位、ラッシングディフェンスも底辺に近い成績しか残せず3勝13敗に終わった。また2勝7敗になったところでカーソンヘッドコーチは解任され暫定ヘッドコーチにジム・ショフナーが就任したがシーズンの残り7試合中1勝しかあげられずに終わり、1991年からのヘッドコーチにはディフェンスコーディネーターのビル・ベリチックが昇格した。 1991年、チーム成績は6勝10敗で終え、コーザーの成績も18タッチダウン、9インターセプトと改善された。この年RBのリロイ・ホードがブレークした。 1992年はコーザーはシーズンのほとんどをサイドライン上で過ごしマイク・トムザックが先発した。チームはAFC中地区の優勝争いに加わったが最後の3試合を落とし7勝9敗で終えた 1993年、ベリチックはコーザーをカット、タンパベイ・バッカニアーズの先発QBだったビニー・テスタバーディを獲得した。チームは地区首位を走っていたがテスタバーディが負傷し欠場、控えQBのトッド・フィルコックスが代役を務めたが最後の9試合中2勝しかできず7勝9敗で終えた。なおチームを退団したコーザーはこの年、ダラス・カウボーイズに加入、スーパーボウルリングを手に入れた。 1994年、QBはチームの弱点であったが、ディフェンスは1プレイあたり相手オフェンスに許した平均ヤードはNFL最少という成績を収め、プロボウルに4人の選手(ロブ・バーネット、ペッパー・ジョンソン、マイケル・ディーン・ペリー、エリック・ターナー)を送り込んだ。チームは11勝5敗で4年ぶりにプレーオフに出場、ワイルドカードプレーオフではニューイングランド・ペイトリオッツのドリュー・ブレッドソーをディフェンスが3回サックし、20-13で破ったが、ディビジョナルプレーオフで同地区のライバル、ピッツバーグ・スティーラーズに9-29で敗れた。この年、前ワシントン・レッドスキンズのQBマーク・リッピンと契約したが、1年でセントルイス・ラムズへ移籍した。 1995年11月6日、オーナーのアート・モデルが、1996年より、1983年までコルツがフランチャイズを置いていたボルチモアにチームを移転すると発表した。翌7日、クリーブランド市議会は1億7500万ドルをかけてクリーブランド・スタジアムを改修することを決めたが、モデルの構想ではスタジアムを取り壊し、新スタジアム建設に3億ドルが必要と計算されていた。ブラウンズのファンはこのニュースに怒り、100件以上の訴訟がクリーブランド市などに対して行われた。地元出身のドリュー・キャリーは11月26日にクリーブランドに戻り、移転阻止のためのファンの集会を開いた。移転への抗議行動はライバルのスティーラーズの地元、ピッツバーグでも行われた。さらにチームスポンサーもこの動きに加わり、クリーブランド・スタジアムから広告を引き上げた。 このシーズン、チームは3勝1敗と好スタートを切ったが、移転発表前の3試合に連敗し、発表後の成績は2勝7敗、5勝11敗でシーズンを終えた。地元での最終戦には警備員や警察官が大動員されて不測の事態に備えた。チームはホーム最終戦となったシンシナティ・ベンガルズ戦は勝利で飾った。 その後もNFL、ブラウンズ、クリーブランド・ボルチモア両市の間で話し合いが続き、1996年2月、「ブラウンズの名前、チームカラー、歴史、記録などはクリーブランドに残し、3年後の1999年に新スタジアム完成と共にエクスパンションチームとして復活させる、ボルチモアにできるチームは新チームとする」と発表された。 モデルのチームはボルチモアに移ってボルチモア・レイブンズとなり、ロースターにいる選手たちはそのまま新球団に移ることとなった。
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