マイアミ大学
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マイアミ大学
- マイアミ大学 (フロリダ州) (University of Miami) - アメリカ合衆国フロリダ州マイアミにある私立大学。
- マイアミ大学 (オハイオ州) (Miami University) - アメリカ合衆国オハイオ州にある州立大学。
マイアミ大学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 15:33 UTC 版)
高校バスケのスター選手となったバリーが選んだ進学先がマイアミ大学であったことは面白い選択だった。当時のマイアミ大は決して名門校とは言い難かったが、寒冷なニュージャージーの冬に辟易していたバリーは温暖な地でのプレーを求め、また高校時代にコーチと衝突を繰り返し、一時はバスケットからも身を引くことを考えていたバリーにとって、マイアミ大のバスケコーチ、ブルース・ヘールの指導方針は魅力的に感じた。マイアミ大は他の名門大学のように大量の新人をリクルートすることはせず、1年生には独立したスケジュールを組ませることで試合への出場機会を与えていた(当時、1年生選手はNCAA(全米大学体育協会)の公式戦には出場できなかった)。また、名門校ではないマイアミ大の施設は充実しておらず、専用の体育館を持たなかったため試合は近隣の会館を利用し、練習は軍の兵器庫を間借りしていた。このような環境の中でも不平屋のバリーを含めて誰からも不満が漏れなかったのは、選手達を食事会に招待したり一緒にプールで泳いだり、練習時も選手と共に汗だくになって走るヘールの人柄が皆から愛されたからだった。 1年生のシーズンを終え、いよいよNCAAの公式戦に参戦したバリーは、1962-63シーズンに平均19.0得点14.6リバウンドの成績を残す。当時のマイアミ大ハリケーンズのエースは7フィート(約213cm)のマイク・マッコイであり、彼の視察のためにプロリーグNBAのロサンゼルス・レイカーズのゼネラルマネージャーもマイアミ大に訪れたことがあったが、ブルース・ヘールは地方紙のインタビューにこう答えている。「私は確かにマッコイがNBAに行くことを否定しない。しかしここにいる2年生、その名もリック・バリー。彼は将来偉大なプロバスケットボール選手になるだろう」。ヘールのこの発言はバリーの闘志に火をつけた。1963-64シーズンには平均32.2得点16.6リバウンド、最終学年の1964-65シーズンには平均37.4得点18.3リバウンドをあげ、その年のNCAA1部リーグの得点王に輝いた。 カレッジバスケの活躍に自信をつけたバリーは、1965年に卒業を迎える頃には自分がNBAドラフトで上位指名されるだろうと予想していたし、実際に彼が残したマイアミ大での3シーズンで平均29.8得点16.5リバウンドという数字は、上位指名されるには十分過ぎる実績だった。しかしプロのチームは必ずしもその考えに同意してはいなかった。彼は確かに素晴らしいカレッジ選手だったが、同時に彼が3年間の間に起こした問題行動も注目された。2年生の時にはサンフランシスコの選手と危うく乱闘に発展しそうになり、1年後の対ロヨラ大戦では相手の選手の顎を殴り、骨折させてしまった。バリーのこの気性の激しさは一部のNBA経営陣を遠ざけさせ、また細身の彼がNBAのハードスケジュールに耐えられるかという疑問も投げ掛けられた。そして1965年のNBAドラフト当日。バリーはニューヨーク・ニックスに指名されることを望んだが、ニックスは1巡目指名権を放棄して地域指名でビル・ブラッドリーを指名。結局彼は全体2位指名でサンフランシスコ・ウォリアーズに入団することが決まった。
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