マイアミ川の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 05:03 UTC 版)
5月2日、ハリソンはクレイの部隊に伝令を送り、部隊の一部で北岸のイギリス軍大砲を使えないようにしてから砦に撤退するよう命令し、その間に砦から出撃して南岸の砲台を攻撃すると伝えた。 インディアンは川を適切に守っていなかったので、クレイ隊は完全な急襲を行えた。5月5日早朝、クレイ旅団のウィリアム・ダドリー大佐が指揮する分遣隊が川の北岸に上陸した。ダドリーが指揮した部隊は、自身のケンタッキー第10民兵連隊の761名、同第13民兵連隊の60名、アメリカ陸軍正規兵45名で構成された。この部隊は北岸の砲台を急襲し、大砲を使えなくしたが、キャプスタン棒の代わりに込め矢を使っており、これは一時的に使えなくしているだけだった。その後でダドリーは部隊の一部を統制できなくなった。森の中からインディアンが銃で撃ってきたので、一部の兵がインディアンを追撃し、森の中深く入ってしまった。ダドリーは彼等を引き戻そうと後を追い、砲台の所にはジェイムズ・シェルビー少佐を指揮官として残した。イギリス軍アダム・ミューア少佐が、宿営地から第41歩兵連隊の3個中隊とカナダ民兵隊1個中隊を率い、砲台に殺到してシェルビー隊の多くを殺し、降伏に追い込んだ。森の中では秩序を無くしたアメリカ兵がインディアンとの戦闘で混乱し、大きな損失を出していた。ダドリー隊の将兵886名の中で僅か150名のみが逃げ出して砦まで辿り着いた。その後この戦闘は「ダドリーの虐殺」あるいは「ダドリーの敗北」と呼ばれるようになった。砲台攻撃に関わっていなかったクレイの残り部隊は、無事砦に到着し守備隊を補強した。 南岸では、アメリカ軍の出撃は部分的に成功した。350名の正規兵と志願兵を指揮したジョン・ミラー大佐が砲台を占領し、41名を捕虜にした。しかし、イギリス軍リチャード・ブロック大尉が第41歩兵連隊の中隊、民兵2個中隊、インディアン300名を率いて反撃し、激しい戦いの間にミラー隊に大きな損失を出させ、砦に撤退させた。
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