マイアミ・ヒート時代
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「ティム・ハーダウェイ」の記事における「マイアミ・ヒート時代」の解説
シーズン途中であったが、パット・ライリー監督の元、心機一転。背番号は10(引退後、永久欠番となる)。アロンゾ・モーニングとのコンビも機能し、マイアミ・ヒートは42勝40敗でプレーオフに滑り込む。1回戦で、マイケル・ジョーダン復帰で波に乗る、ブルズにスウィープされ敗退するが、ヒートの第1期黄金時代の幕開けを予感させるシーズンとなった。 8年目 30歳 96-97シーズン 平均得点20.3 アシスト8.6 ヒートはオフの間に、ダン・マーリー、P・J・ブラウンを獲得。シーズン中にはトレードでジャマール・マッシュバーンを獲得。黄金期のスターターが揃い、ボション・レナード、アイザック・オースティンらの台頭もあり、チームは躍進を遂げる。またハーダウェイ本人も、ケガの後遺症もほぼ消え去った頃で、シーズンは平均20.3点、8.6アシストと、リーグ屈指のポイントガードだった嘗てのプレーレベルを取り戻す。4年振りにオールスターにも出場。他チームからの寄せ集め集団だったヒートを、チームリーダーとしてまとめ上げたことを評価され、初めてオールNBA1stチームにも選出された。「彼のおかげで俺のプレーは向上した(モーニング)、「俺たちのゴー・トゥ・ガイ、我がチームのMVPさ」(P.J・ブラウン)とチームメイトたちは口々にハーダウェイを讃えた。ライリー監督も「彼の気性、統率力、技術はマジック(ジョンソン)と同等だ。違うのはサイズだけだよ」と激賞した。ロサンゼルス・レイカーズ時代にマジックのコーチだった人物の、最大級の誉め言葉だった。 ハーダウェイやモーニングの活躍で、チームはシーズン61勝21敗と球団史上最高成績で、プレーオフに進出。1回戦では、ペニー・ハーダウェイ率いるオーランド・マジックと対戦。ハーダウェイ対決と注目を集める中、ペニー・ハーダウェイの脅威的な活躍で大手をかけられるものの、元祖ハーダウェイは自分だと言わんばかりの意地を見せるティムの爆発で辛くも突破。チーム初のカンファレンスセミファイナルに進出し、ライリー監督の古巣、ニューヨーク・ニックスと対戦。P.J.ブラウンと、チャーリー・ウォードの大乱闘がありながらも、何とか勝ち進み、チーム初のカンファレンスファイナルまで勝ち進むも、シーズン72勝10敗と、NBA史上最高勝率を挙げたジョーダン率いるブルズに呆気なく敗れる。しかしヒートはイースタンカンファレンスを代表する強豪となった。 9年目 31歳 97-98シーズン 平均得点18.9 アシスト8.3 2年連続、5度目のオールスターに選出(オールスター選出は事実上これが最後)。ヒートは55勝27敗で順調にプレーオフに進出。しかし、カンファレンスセミファイナル、因縁のニックス戦では、シャーロット・ホーネッツで元チームメイト同士だったモーニングとラリー・ジョンソンの乱闘劇により、次の最終戦の第7戦、大黒柱のモーニングを出場停止処分で欠くヒートは、終始大量リードされる展開だった。マークが集中しながらも奮闘するハーダウェイとブラウンの活躍で、一時は1点差まで詰め寄る。しかし、期待されたマッシュバーンが精彩を欠き、敢えなく敗退。ニックスは、ジョンソン不在でも戦力ダウンを感じさせない選手層があった一方で、ヒートはシーズン途中に、控えセンターの、アイザック・オースティンをトレードで放出してしまっており、モーニングの代わりが務まるレベルのセンターが居なかった。2年連続の乱闘劇であり、ニックスとの因縁はさらに深まっていく。この反省から、以降モーニングは頭を丸めている。 10年目 32歳 98-99シーズン 平均得点17.4 アシスト7.3 NBAはロックダウンの影響で、50試合の短縮シーズンとなったが、ヒートはイースタン最高勝率で第1シードを獲得。ブルズが、ジョーダン引退で衰退化し不在のプレーオフ、優勝の絶好のチャンス到来であり、下馬評はヒート優勝が圧倒的であった。1回戦は、シーズン不調で第8シードでギリギリプレーオフに滑り込んだニックスと、3年連続の因縁の対決。最終の第5戦までもつれるものの、残り4.2秒でアラン・ヒューストンに逆転を許してしまい敗退。第1シードが第8シードに敗れるのは、史上2度目の大番狂わせであった。 尚、その年、ニックスとの因縁が一つ増えている。ニックスは衰えが目立つパトリック・ユーイングに代わり、ウォリアーズでハーダウェイと犬猿の仲だったスプリーウェルと、97年、マッシュバーン獲得の際に、トレードで放出されたカート・トーマスが主力となり、優勝候補だったヒートと、インディアナ・ペイサーズを破竹の勢いで破り、NBAファイナルまで進出。ミラクル・ニックスと呼ばれた。 11年目 33歳 99-00シーズン 平均得点13.4 アシスト7.4 プレーオフ、カンファレンスセミファイナルにて、ニックスと4度目の激突。最終の第7戦の残り4.5秒でまたもや逆転され、3シーズン連続、最終戦でニックスの前に力尽きる。このシーズンを最後に、ニックスとの因縁対決は、ニックスの弱体化により幕を閉じる。毎年、レギュラーシーズンはヒートの方が上位だが、短期決戦のプレーオフでは、ニックスに軍配があがる対決であった。尚、ハーダウェイは優勝に手が届かぬまま、既に30代中盤に差し掛かっており、この頃から衰えが少しずつ見え始める。 敗退後のライリー監督の会見は、悲壮感に満ちており、ファンにとっても衝撃的であった。 オフシーズン中の、2000年のシドニー五輪には、モーニングと共にアメリカ代表として出場し、金メダルを獲得。ハーダウェイはチーム最年長として、リーダーシップを発揮した。世界選手権を怪我で辞退せざるを得なかったハーダウェイにとって、モーニングと共に獲得した金メダルは格別の物であった。 また、このオフ、ライリー監督は4年間固定してきた主力メンバーの構成に見切りをつけ、積極的にトレードを敢行。マッシュバーン、P.J.ブラウン、ボション・レナードを放出し、エディ・ジョーンズ、ブライアン・グラント、アンソニー・メイソンを獲得。ハーダウェイ、ジョーンズ、メイソン、グラント、モーニングと言う、全員オールスタークラスの最強チームが完成。しかし、多くの解説者がヒートを優勝候補と予想する中、シーズン開始直前にモーニングの腎臓疾患が発覚し、暗雲が立ち込める。 12年目 34歳 00-01シーズン 平均得点14.9 アシスト6.3 開幕からモーニングを欠きながらも、ハーダウェイのリーダーシップと新加入メンバーの奮起で、何とかプレーオフに進出。モーニングも手術、リハビリを経て、シーズン最終盤に復帰を果たしたものの、とても本調子には程遠い状態であり、また、新チームに馴染む前にプレーオフを迎えることになった。1回戦は、元チームメイトのマッシュバーン、P.J.ブラウン率いるホーネッツと対戦。マッシュバーンはこの年、ヒート時代と変わり、チームのエースとして、心身共に全盛期を迎えており、本調子では無いヒートを圧倒。何とこのシリーズ、ヒートをスウィープで撃破。モーニングの不調とハーダウェイの衰えが顕著であり、特にハーダウェイは足首の怪我を押して出場した事もあるが、新進気鋭のホーネッツの若手ポイントガード、バロン・デイビスのスピードに付いていけず、また、抑え込まれ、世代交代、選手生命が終わりに近づいている事を、実感せざるを得ないシリーズとなった。このシーズン限りでハーダウェイは、高齢を理由にヒートから放出され、嘗ての恩師、ドン・ネルソン監督率いるダラス・マーベリックスへ移籍する。
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「マヌート・ボル」の記事における「マイアミ・ヒート時代」の解説
ボルは1993年から1994年にかけて1シーズンのみマイアミでプレーしたものの、レギュラーとしては起用されなかった。61分間のプレー中で2ポイントと6ブロックを決めただけで終わった。
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