第1期黄金時代とは? わかりやすく解説

第1期黄金時代(ミラー・ハギンス監督)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:24 UTC 版)

ニューヨーク・ヤンキース」の記事における「第1期黄金時代(ミラー・ハギンス監督)」の解説

買収後数年間に渡って、新オーナー選手報酬総額高くていった。そして皮肉な事に、後にチーム成功貢献することとなる新規獲得選手ボストン・レッドソックス出身であった当時レッドソックスオーナー劇場興行主ハリー・フレイジーであったが、彼はチームローン購入したため支払い窮しており、更にはブロードウェイショー制作まで行っていたため手っ取り早い収入を得る事が重要だった1919年から1922年まで、ヤンキースレッドソックスから、投手ではウェイト・ホイト下手投げカール・メイズハーブ・ペノック捕手のウォリー・シャン、遊撃手エベレット・スコット三塁手のジョー・ドュガンを獲得した。 そして最大獲得選手1920年1月入団し投手から野手転じたベーブ・ルースである。野球界最高額年俸貰っていたのにも関わらず更なる増額要求していた彼に払えるだけのお金レッドソックス側は用意しておらず、ルース前年当時年間最多本塁打記録29本)を更新していたのにもかかわらずヤンキースへと放出した彼の獲得費用は、125千ドル金銭レッドソックス本拠地フェンウェイ・パーク抵当付され借金30ドルであった。この時レッドソックス側はヤンキースに有名選手放出する事により、良きライバルとして互い興行収入上げようとの狙いもあった。しかし、ルース放出して以後84年間に及びレッドソックスワールドシリーズで勝つ事は無かったバンビーノの呪い参照)。 この時期におけるもう一つ重要な新加入者は、ミラー・ハギンス監督と、GMエド・バローである。ハギンス監督は、1919年に、ヒューストンヨーロッパ出征中にルパートによって雇われた(これをきっかけに、両オーナーの間の溝が深まり結局1923年ルパートヒューストン持分買い取りオーナー職から追い出す事となる)。バローは、1920年シーズン終了後GMに就任した。彼は1918年からレッドソックス監督をしていた人物である。バローは、GM球団代表その後25年務め、その期間のチーム成功貢献したとりわけ特筆されるのは、ジョージ・ワイスとともにヤンキースファーム制度整備大きく寄与したことである。 ルースによって放たれホームランにより野球人気大衆の間にも浸透しおまけにヤンキース地主ジャイアンツファンをも引き付け始めた1921年に、ヤンキース1922年シーズン終了後までには当時間借りしていたポロ・グラウンズからの移転半ば強制的に勧められた。ジャイアンツマグロー監督は「彼らはどっか遠い所に行ってしまった方がいい、クイーンズ区とか」と述べたが、皮肉にもヤンキースの新球場ポロ・グラウンズからハーレム川挟んで反対側の土地建設された。1923年に、ブロンクス161番とリバー通り角にヤンキー・スタジアム完成地下鉄の駅ライト後方にあったのが直接決め手だったと言われている。当時としては最先端セメント工法建てられ史上初の3階建て球場で、収容人員驚異5万8千人であった。まさに、「ルース建てた家」と呼ばれるのにふさわしい威容である。スタジアムでのこけら落としとなる第1戦でルース見事に本塁打打ち貫禄見せ付けた。なお、このシーズンルース記録した打率.393は今でもヤンキースチーム記録である。同じニューヨーク球団ということで、ジャイアンツヤンキースライバル関係熾烈だった。興味深いことのひとつが対照的なプレースタイルである。当時ジャイアンツ監督は「リトルナポレオン」の綽名持ったジョン・マグローであり、ヒットエンドラン盗塁多用し走塁徹底守備位置精微研究といった、緻密な作戦や足を重視したいわゆるスモールボールジャイアンツ特徴だった。対してヤンキースは、ベーブ・ルース質量ともに誰にも真似できないホームラン連発しビッグボール一つセールスポイントとなった1920年のポロ・グラウンドの年間観客動員を見ると、ジャイアンツは約95万人ヤンキースは約135万人当時ファンビッグボール興味示し始めたともいえる。 1921年から1928年まで、ヤンキースは第1期黄金時代を迎えアメリカンリーグで6回優勝しワールドシリーズでは3回優勝した1921年から1923年通じてワールドシリーズジャイアンツと相まみえ、1度目2度目敗れたが、1923年には雪辱果たした。この時に相手側にいたケーシー・ステンゲル監督は後にヤンキース監督就任し数々優勝もたらす事になる。 1927年チームは、余りにも豪華メンバーで、「殺人打線」(Murderer's Row)として知られ、しばしば野球史最強チーム挙げられる(このヤンキース歴代最強チームについては他に1939年1961年1998年についても打線強力なため、同様に史上最強呼ばれることもある)。当時ア・リーグ記録である110勝44敗という好成績残しピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズでも4連勝危なげなく優勝1927年ルースシーズン本塁打60本は、アメリカンリーグの他の全球団の合計本数上回りその後34年間に渡って最高記録であったまた、ルー・ゲーリッグ一塁手も大ブレーク遂げ打率.373に47本塁打打った。主にルース3番ゲーリッグ4番打っていたが、その後控え打者中々強打者であったボブ・ミューゼル外野手打率.337に103打点トニー・ラゼリ打率.309、18本塁打リーグ3位102打点記録。この打線特徴単なる重量打線だっただけでなく、スピード大きな武器で、ミューゼルは24盗塁、ラゼリも22盗塁挙げる一番打者アール・コームス打率.356を記録し231安打1986年ドン・マッティングリーが破るまでチーム記録であった1927年のヤンキースチーム打率は.307だった。 1928年には再びア・リーグ優勝チームとして返り咲きセントルイス・カージナルス相手ワールドシリーズで4連勝し制覇ルース16打席10安打打率.625はワールドシリーズ記録であり、そのうち3本本塁打であったゲーリッグ負けじと11打数6安打に4本塁打記録その後フィラデルフィア・アスレチックス優勝争い繰り広げ1932年ワールドシリーズ出場。この時の相手シカゴ・カブスも4連勝退けワールドシリーズでの連勝記録12伸ばした。これは2000年ワールドシリーズヤンキースが再び記録更新するまでのMLB記録であった。この1932年のワールドシリーズで、ルースリグレー・フィールド有名な予告ホームラン打っている。

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第1期黄金時代

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UEリェイダ」の記事における「第1期黄金時代」の解説

UDリェイダ1940年代後半1950年代初頭黄金期迎え、わずか3シーズンテルセーラ・ディビシオン当時3部相当)からプリメーラ・ディビシオン1部)への昇格果たしている。1949年にはテルセーラ・ディビシオン優勝し、1949-50シーズンにはセグンダ・ディビシオン2部)に初参戦した。このシーズンCDルーゴ戦(9-2)ではクラブ史上最大得点差での勝利を挙げリーグ戦2位終えてクラブ史上初のプリメーラ・ディビシオン昇格果たした。しかし、プリメーラ初参となった1950-51シーズンCDマラガ0-9デポルティーボ・ラ・コルーニャに1-10、アスレティック・ビルバオ0-10負けるなど敗戦続き結局1シーズンセグンダ降格となった。このシーズンにはリベロ、リガウ、テレチェア、カリージョ、エスケルダ、ロカ、ガウシ、ペジセール、ラモン、ビデガイン、フステーロの11人がレギュラーとしてプレーした

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