ジョン・マグロー
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ジョン・ジョセフ・マグロー(John Joseph McGraw, 1873年4月7日 - 1934年2月25日) は、アメリカ合衆国ニューヨーク州トラクストン出身のプロ野球選手(三塁手)、プロ野球監督。右投げ左打ち。
- ^ “ホワイトソックス・ラルーサ監督が歴代2位2764勝「とても感慨深い」”. 日刊スポーツ. (2021年6月7日) 2021年6月12日閲覧。
- ^ ベースボール・マガジン社 週刊ベースボール増刊 大リーグ永久欠番物語 p15(2013年4月24日発行) B00CBKHMGW
- ^ 日本スポーツ企画出版社 [完全保存版]MLB歴史を変えた100人 p85(2017年6月23日発行)
- ^ 出野哲也著 改訂新版 メジャー・リーグ人名事典 p674(2013年8月28日発行)
- ^ 『東京朝日新聞』 1925年3月7日
- 1 ジョン・マグローとは
- 2 ジョン・マグローの概要
- 3 詳細情報
- 4 関連項目
ジョン・マグロー
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「1932年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ジョン・マグロー」の解説
この年、シーズン前半にニューヨーク・ジャイアンツのジョン・マグロー監督が病気のため引退した。ジャイアンツの監督を30年間務め、その間リーグ優勝10回、2位が11回、ワールドシリーズ制覇3回。通算勝利2763勝はコニー・マックに次いで史上2位である。そのコニー・マックは「本物の監督と呼べるのはジョン・マグローだけしかいない」と最大の賛辞を送った。身長170センチで小柄でありリトルナポレオンと呼ばれた。勝つためなら手段を選ばず、相手側の走塁や守備を妨害したり、フェアープレーよりも常に勝利を優先し、退場回数は131回に及んだ。選手時代も荒っぽいエピソードが多いが、グラウンドを固くしてバウンドを大きくすることで安打を増やしたり、ウイリー・キーラーとの1・2番コンビでヒットエンドランを連発したり、勝つために何をやるかを常に考えていた。 バン・ジョンソンがアメリカンリーグ創設に動いたときに、コニー・マックに対抗する目玉としてジョン・マグローを新球団ボルチモア・オリオールズ(後のニューヨーク・ヤンキース)のオーナー兼監督兼三塁手として迎え入れたが、2人は最初からうまくいかず、ジョンソンの強引なニューヨーク移転に反発して1902年のシーズン途中でオリオールズを飛び出し、ジョンソンの機先を制すように同じニューヨークを本拠地とするナショナルリーグのジャイアンツに選手兼任監督で迎えられた。選手としては通算打率.334でタイトルには縁がなかったが、2年連続で最多四球と最多得点を記録し最高出塁率も3度達成して、特に1897年の最高出塁率.547はリーグ記録としてその後なかなか破られず、100年以上過ぎた2002年にバリー・ボンズによって塗り替えられるまで長期に渡ってナショナルリーグ記録であった。粗暴でもあるが非常に頭が切れて、しかも情に厚い面もあった。リーグ優勝を逃した超ボーンヘッドのフレッド・マークル(1908年)をかばい、シリーズで勝利寸前に優勝を逃した落球のフレッド・スノッドグラス(1912年)も彼は大事にした。そして監督引退にあたって後継者を子飼いのリンドストロムではなく、確執のあったビル・テリーを指名したのは私情を挟まず冷静に判断する彼ならではであった。
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