テンプルカップ
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「1896年のメジャーリーグベースボール」の記事における「テンプルカップ」の解説
シーズン終了後のテンプルカップ(ナショナルリーグ優勝チームと2位チームとの7回戦)は、リーグ3連覇のボルチモア・オリオールズが2位チームのクリーブランド・スパイダーズを下し初めて優勝した。 ボルチモア・オリオールズ(1882-1899年)は、1882年にアメリカン・アソシェーションの創設とともに作られたチームである。1891年を最後にアメリカン・アソシエーションは消滅しオリオールズはナショナルリーグに移籍する。1892年にナショナルリーグに加盟して、1894年から1896年までのリーグ3連覇がオリオールズの絶頂期であった。1898年、当時のオーナーだったハリー・フォン・デル・ホーストは、球団運営でより高い収益を得ようと、ブルックリン・スパーバス(後のドジャース)の株式を得て経営に参加しオリオールズと2つの球団の経営を掛け持ちしたことで、オリオールズの主力選手が揃ってブルックリンに移籍する事態が起きた。この時マグローはブルックリンへの移籍を拒み、翌1899年にオリオールズの兼任監督となる。マグローは既に主力を失って弱体化したチームを率い、リーグ4位と健闘したが、1人のオーナーによる複数球団の掛け持ち経営が問題視されたことで、ホーストは同年を最後にオリオールズを解体することになった。 一方、現在のボルチモア・オリオールズは、アメリカンリーグが創設された1901年にウィスコンシン州ミルウォーキーを本拠地として、1年だけ「ミルウォーキー・ブルワーズ」(現在のミルウォーキー・ブルワーズとは無関係)として活動した球団が起源である。当時ボストン・ビーンイータース(後のブレーブス)の名選手ヒュー・ダフィーを兼任監督に据えたが、48勝89敗と大きく負け越す多難な船出だった。そして2年目の1902年にミズーリ州セントルイスに本拠地を移し、セントルイス・ブラウンズ(カージナルスとは別球団)となった。このセントルイス・ブラウンズが1954年にボルチモアに移転して現在のボルチモア・オリオールズとなった。
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テンプルカップ
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「1897年のメジャーリーグベースボール」の記事における「テンプルカップ」の解説
シーズン終了後のテンプルカップ(ナショナルリーグ優勝チームと2位チームとの7回戦)は、ペナントレース優勝チームのボストン・ビーンイーターズではなくて、2位だったボルチモア・オリオールズが優勝した。テンプルカップは結局これが最後となった。
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テンプルカップ
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「1894年のメジャーリーグベースボール」の記事における「テンプルカップ」の解説
3ゲーム差で2位に甘んじたニューヨーク・ジャイアンツのファンからマグローやキーラーらのヒットエンドランなどを駆使する新しい戦法を邪道と決めつけ、ジャイアンツこそナンバーワンチームだと主張してボルチモアのファンとの間で論争となった。そこへピッツバーグの大富豪で熱心な野球ファンであり、ピッツバーグ・パイレーツの元会長であったウイリアム・C・テンプルが両チームにポストシーズンに決着をつけるゲームを行うことを提案して私費を投じて高価な優勝カップを寄贈して7回戦のシリーズが開催されることとなった。結果はニューヨーク・ジャイアンツがボルチモア・オリオールズに4連勝して、優勝カップを獲得した。以後1897年まで、このシリーズは寄贈者の名前を取ってテンプルカップと呼ばれて、ナショナルリーグの優勝チームと2位チームとで争うシリーズとなった。しかしペナントレースの意義が無くなるとの世論が高まり、1897年限りで歴史を閉じた。 もともとはジョン・マグローやキーラーへのニューヨークの野球ファンの不満から始まったシリーズだったが、皮肉にも8年後の1902年にアメリカンリーグ会長バン・ジョンソンとの対立からジョン・マグローがボルティモアからニューヨーク・ジャイアンツに招かれ、以降30年間ニューヨーク・ジャイアンツ監督を続けることとなった。
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テンプルカップ
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「1895年のメジャーリーグベースボール」の記事における「テンプルカップ」の解説
前年から始まったテンプルカップ(ナショナルリーグ優勝チームと2位チームとの7回戦)は、ペナントレース優勝のボルチモア・オリオールズが敗れ、2位だったクリーブランド・スパイダーズが優勝した。 クリーブランド・スパイダーズは1887年に「クリーブランド・ブルース」として結成され、アメリカン・アソシエーションに加盟した。2年後の1889年にナショナルリーグに移り、「クリーブランド・スパイダーズ」に改称し、1890年にサイ・ヤングが入団してデビュー直後から桁外れの実力を発揮し、リーグ戦が前後期に分かれた1892年にチームはシーズン通算93勝を上げて後期に優勝しプレーオフに初めて進出したが、ボストン・ビーンイーターズ(現アトランタ・ブレーブス)に敗れ、年間優勝は出来なかった。その後スパイダーズはなかなか優勝に手が届かず、スパイダーズのオーナーらは1898年にセントルイス・ブラウンズ(後のカージナルス)のフランチャイズ権を取得し、セントルイス・パーフェクトズと改称してサイ・ヤングを始め主力選手を次々とパーフェクトズへ移籍させた。主力選手を失ったスパイダーズは、翌1899年のシーズンではMLB歴代2位の記録となる24連敗を喫し、歴代最多敗戦となる20勝134敗(勝率.130)という成績でナショナルリーグを脱退し解散した。そしてセントルイス・パーフェクトズは翌年の1900年にセントルイス・カージナルスと名前を変えて今日に至っている。 一方クリーブランドでは、1900年にアメリカンリーグの前身のウエスタン・リーグに1894年から加盟していたミシガンのグランドラピズ・ラスラーズがクリーブランドに移転し、クリーブランド・レークショアズとしてアメリカンリーグのチームとなった。そしてメジャーリーグとなった1901年にクリーブランド・ブルーバーズと改称した。これが現在のクリーブランド・ガーディアンズの起源である。
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