ワールドシリーズの開催
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 13:27 UTC 版)
「1903年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ワールドシリーズの開催」の解説
1903年1月の両リーグ間の協定締結では、両リーグ優勝チーム同士によるポストシーズン・ゲームの創設は含まれていなかったが、公式戦が佳境に入り、優勝の行方も見え始めた8月ナショナルリーグのピッツバーグ・パイレーツのオーナーであるバーニー・ドライファス(或いはドレフィス)はアメリカンリーグのボストン・アメリカンズのオーナーであるヘンリー・キリリア(或いはキリリー)に5勝で勝ち上がりの9試合制の「ワールドシリーズ」の開催を書簡で提案した。 この年にたまたまナショナルリーグのペナントレースでトップを走っていたチームがピッツバーグ・パイレーツであったことは幸運であった。1894年の「テンプルカップ」の創設者はパイレーツの元会長でピッツバーグの大富豪であったウイリアム・テンプル。1900年にわずか1回限りで終わった「クロニクル・テレグラフカップ」の提唱者はピッツバーグの地元紙であり、その背後にはパイレーツがいた。二大リーグの優勝チームがポストシーズンにシリーズで戦う発想はピッツバーグにとっては、ごく自然なものであった。テンプルカップとクロニクル・テレグラフカップの経験と記憶が、この画期的な提案に繋がったと思われる。審判員は2人、選手は9月1日に登録されていたものに限るとして1903年9月16日に両チームは開催に当たってのチケット価格、収入の分配方法、審判団の手配などについて合意を交わし、10月1日からボストンで始まることを決めた。 そして1903年10月1日午後3時、ボストンのハンチントンアベニュー・ベースボールグラウンズに約1万6000人の観客を集めてワールドチャンピオンシップ・シリーズ第1戦がスタートした。入場料1ドル50セントで売れに売れて観客がスタンドに入り切れず外野フェンスの前のフィールドにロープを張ってグラウンド内にも観客を入れるほどであった(このフェンス前の観客のいる所にロープを超えて球が飛び込んだ場合は二塁打とするルールであった)。球場に来られないファンには球場からモールス信号で送られてくる電報で、各都市の新聞社で大声で読み上げられて新聞の記事に組み込まれた。そして第1戦初回にサイ・ヤングの第1球から始まったシリーズは第8戦最終回にホーナス・ワグナーの三振で終わった。
※この「ワールドシリーズの開催」の解説は、「1903年のメジャーリーグベースボール」の解説の一部です。
「ワールドシリーズの開催」を含む「1903年のメジャーリーグベースボール」の記事については、「1903年のメジャーリーグベースボール」の概要を参照ください。
- ワールドシリーズの開催のページへのリンク