ヤンキース王国の黄昏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 14:10 UTC 版)
「1964年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ヤンキース王国の黄昏」の解説
ニューヨーク・ヤンキースは1949年からこの1964年までの16年間でリーグ及びシリーズ5連覇(1949~1953)・リーグ4連覇(1955~1958 シリーズ制覇2回)・リーグ5連覇(1960~1964 シリーズ制覇2回)で、16年間に14回リーグ優勝しワールドシリーズ制覇9回を数え、1920年代のミラー・ハギンス監督の下でベーブ・ルースとルー・ゲーリッグの殺人打線が築いた第1期黄金時代、1930年代の名将ジョー・マッカーシー監督の下でルー・ゲーリッグとジョー・ディマジオが活躍しレフティ・ゴメス、レッド・ラフィングが投げた第2期黄金時代を経て、戦後1949年から1960年まで采配を振るったケーシー・ステンゲル監督の下でジョー・ディマジオとヨギ・ベラ、そしてミッキー・マントルが打ち、アーリー・レイノルズ、エド・ロパット、ビック・ラスキ(ラッシー)、そしてホワイティ・フォード、ドン・ラーセンが投げた第3期黄金時代、そのステンゲルの後任となったラルフ・ホウク監督の下でミッキー・マントル、ロジャー・マリスのMM砲が花開き、ホワイティ・フォード、ラルフ・テリーが投げていた第4期黄金時代が、この年に終焉となった。 この時期のヤンキースは、マントルとマリスがルースの本塁打記録60本に挑戦した1961年が頂点でジョニー・ブランチャード、ヨギ・ベラ、ビル・スコウロン、エルストン・ハワードらも同じ1961年に本塁打20本以上を打ち、そしてジョー・ペピトーン一塁手、ボビー・リチャードソン二塁手、トニー・クーベック遊撃手、クリート・ボイヤー三塁手の内野陣の守りは強固で、そして投手陣はエースのホワイティ・フォード、ラルフ・テリー、ジム・バウトン、アル・ダウニング、そしてこの年に後にエースとなるメル・ストットルマイヤーが入ってきた。 しかし主軸のミッキー・マントル、ロジャー・マリス、エースのホワイティ・フォードが揃って衰えてきたことが、ヤンキース凋落の大きな理由であった。しかしそれだけでなく、もっと大きな問題は1950年代初めから有力な黒人選手を取らなかったこと、マイナーリーグが衰退して伝統を受け継ぐ後継者が育たなかったことが大きな要因であった。1946年にドジャースのブランチ・リッキーがジャッキー・ロビンソンを入団させて以来、黒人選手を積極的にスカウトしたナショナルリーグでは1947年から1960年までアメリカ野球記者協会が選出したリーグMVP11人の内の8人は黒人選手でジャッキー・ロビンソン、ロイ・キャンパネラ(ドジャース)、ウィリー・メイズ(ジャイアンツ)、ドン・ニューカム(ドジャース)、ハンク・アーロン(ブレーブス)、アーニー・バンクス(カブス)であった。さらに同じ時期に新人王にはロビンソン、ニューカム、メイズ以外にフランク・ロビンソン(レッズ)、オーランド・セペダ(ジャイアンツ)、ウィリー・マッコビー(ジャイアンツ)が選ばれて、同じ時期にアメリカンリーグでは1人として受賞者はいなかった。ヤンキースの対応は遅く、ジョージ・ワイスGMは消極的でようやく1955年にエルストン・ハワードを入団させて外野手から捕手にコンバートしヨギ・ベラの後継者とした。ハワードはマントルやマリスが不調の時に活躍し、前年の1963年にリーグMVPに選ばれたが、これがアメリカンリーグで黒人選手として最初の受賞者であった。ナショナルリーグはその後もフランク・ロビンソン、ロベルト・クレメンテ(パイレーツ)、ボブ・ギブソン(カージナルス)やセペダ、マッコビーらがリーグMVPに選ばれている。全盛期でマントルやフォードが揃い、後継者たる新人の育成にすぐに取り組まなかったヤンキースの遅れがマントルやフォードの衰えとともにチームを弱体化させた。
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