ロジャー・マリス
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ロジャー・ユージーン・マリス(Roger Eugene Maris, 1934年9月10日 - 1985年12月14日[1])は、アメリカ合衆国ミネソタ州ヒビング出身のプロ野球選手(外野手)である。右投左打。
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- ^ 2022年現在はア・リーグ左打者最多本塁打記録保持者
- ^ a b c 伊東一雄『メジャー・リーグ紳士録』ベースボール・マガジン社、1997年、202-203頁。ISBN 978-4583034119。
- ^ 伊東一雄、吉川達郎(監修)『メジャーリーグこそ我が人生 パンチョ伊東の全仕事』産経新聞ニュースサービス、2003年、412頁。ISBN 978-4594041175。
- 1 ロジャー・マリスとは
- 2 ロジャー・マリスの概要
- 3 詳細情報
- 4 参考文献
- 5 外部リンク
ロジャー・マリス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:03 UTC 版)
「1961年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ロジャー・マリス」の解説
ヤンキースのマリスがベーブ・ルースの記録を破ってシーズン最多本塁打61本を打ったが、打ったマリスも「61本」の記録も野球界から歓迎されないものであった。2年前にアスレチックスから移籍し、ヤンキースの生え抜きではないマリスは、ヤンキースでデビューして早くからディマジオの後継者と目され5年前に三冠王となってスーパースターだったミッキー・マントルとの本塁打王争いが白熱してベーブ・ルースの60本に迫る勢いの時に、ニューヨークのファンはマントルを応援していた。それがマントルにとって不運にも故障から60本に達せず、余所者のマリスに取られたと感じていた。またベーブ・ルースの不滅の記録とされた60本にこの年から試合数が増えた結果、ルースよりも多い試合数で61本を打ってもそれが価値のあることなのかという議論が巻き起こり、とうとうコミッショナーまでがルースの記録と同等には扱えないという見解を出す始末となり、最終162試合目の10月1日の対レッドソックス戦でトレイシー・スタラード投手から右翼席に61号を打った後にはただタイトルを取ったことだけで終わり、球団からも何の褒賞も出なかった。さらにマリスはその後に手首の故障から力が落ち、40本以上打ったのはこの年だけで、打率三割に達したことがなく、カージナルスに移って7年後に引退し、通算打率.260で通算本塁打275本で終わった。1961年だけが輝いていて殿堂入りも果たせず、「ホームラン記録なんて作らなければ、もっと楽しい野球人生が送れたのに」と後にマリスは語っている。24年後の1985年に51歳で死去し、それから6年後の1991年になって公式にマリスの61本がシーズン最多本塁打記録として認められた。それから7年後にマグワイアとソーサに破られ、さらに3年後にバリー・ボンズが73本打ったが、その後薬物使用疑惑で記録としての価値が認められず、今日ではロジャー・マリスの61本を最多記録とすべきという意見が出ている。
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