ベーブ・ルース越え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 08:04 UTC 版)
「ロジャー・マリス」の記事における「ベーブ・ルース越え」の解説
1961年、アメリカンリーグは新規球団の加盟を認可し、それまでの8球団から10球団に増えた。これにより結果的にリーグ全体の投手の質は低下し、ヤンキースの本塁打数は記録的なペースで積み上げられていった。この年に撮られた有名な写真はミッキー・マントル、マリス、ヨギ・ベラら6人のヤンキース選手を並べたもので、最終的にはこの6人合計で207本もの本塁打を打った打線は「殺人打線(Murderer's Row)」として他球団の投手陣から恐れられた。 マリスがシーズン初本塁打を放った4月27日にMM砲(英語版)の一方である4番打者マントルは既に7本を記録していたが、5月半ばにマリスが12試合で9本打ってから2人の本塁打競争は激化した(5月末の時点でマリス12本、マントル14本)。シーズンも半ばに入ると6人の中でもマリスかマントル、あるいは両者がルースの34年間保持してきた年間最多本塁打記録を更新する事は確実な情勢になってきていた。好意を持って報じられたマーク・マグワイアとサミー・ソーサによる1998年のシーズン最多本塁打記録争いとは異なり、当時のスポーツ記者は2人の不仲を騒ぎ立てるような記事を多く書き立てていった(ベラは後年のインタビューで両者の不仲を否定)。 ルースの記録はニューヨークの保守的記者にしてみればまさに「聖域」であった。また、その他にも当時のメディアは生え抜きで記者との関係も良好だったマントルを応援する風潮になっていたのに対しマリスは外様であり無口だったため「真のヤンキースの一員ではない」などの批判にさらされ、悪者扱いする人たちも少なからずいた。また、マリスの本塁打はヤンキー・スタジアムにおあつらえ向きのフェンスギリギリの低いライナーの当たりが多かったこと、また打率が2割7分前後と平凡だったことで「ルースの記録を破るにふさわしい人物ではない」との評判もあった。 そんなマリスを更に逆風が襲う。ルースの時代では154試合で60本を達成したのに対マリスの時には現行の162試合制であったことから、ルースのゴーストライターで当時MLBコミッショナーを務めていたフォード・フリックはルースの記録をマリスが154試合以内で破らない限り両者の記録は併記され、参考記録扱いになると発表した。その他にも「次打者がマントルであるため敬遠されることが少ないのでルースより有利な条件だ」という理由で、たとえマリスがルースの記録を数字の上で破ってもその記録は認めるべきでない、という意見もあったが、いずれもルースの記録を不可侵なものと認識する保守的なファンの苦しいこじつけであった。 40号、50号をマントルよりも早く達成し、迎えた154試合目の9月20日に59号を放つものの60号は打てず、9月26日に60号を記録した。10月1日にヤンキー・スタジアムでのシーズン最終戦対ボストン・レッドソックス4回裏にトレイシー・スタラード(英語版)から第61号本塁打を放ち、記録更新を達成。しかし、この時の記憶は彼にとって決して好ましいものとはならなかった。記録達成が近づいたころからはホーム球場で本塁打を打っても地元ファンからブーイングを受けるという、前代未聞の屈辱と苦しみを受けさせられることとなった。後年インタビューでマリスはまるで自分が悪いことをやっているかのように報じられ、大変なストレスが溜まったと述べている。また、他のインタビューでは記録を破るどころか近づかない方がよかったのかも知れないとも語っている。当時のヤンキースファンは本塁打を打つたびに、明るく生還して大拍手のマントルを善玉、ニコリともしないマリスを悪玉として扱っていた。この1961年に初めてMM砲(英語版)という言葉も生まれている。 同年は本塁打・打点の二冠王(打点はボルチモア・オリオールズのジム・ジェンタイルと同点)に輝き、2年連続となるアメリカンリーグMVPを受賞。
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