1967年の野球 (1967ねんのやきゅう)では、1967年 の野球界 における動向をまとめる。
競技結果
日本プロ野球
ペナントレース
日本シリーズ
1967年 日本シリーズ
日付
試合
ビジター球団(先攻)
スコア
ホーム球団(後攻)
開催球場
10月21日(土)
第1戦
読売ジャイアンツ
7 - 3
阪急ブレーブス
阪急西宮球場
10月22日(日)
第2戦
読売ジャイアンツ
1 - 0
阪急ブレーブス
10月23日(月)
移動日
10月24日(火)
第3戦
阪急ブレーブス
1 - 6
読売ジャイアンツ
後楽園球場
10月25日(水)
第4戦
阪急ブレーブス
9 - 5
読売ジャイアンツ
10月26日(木)
第5戦
阪急ブレーブス
6 - 3
読売ジャイアンツ
10月27日(金)
移動日
10月28日(土)
第6戦
読売ジャイアンツ
9 - 3
阪急ブレーブス
阪急西宮球場
優勝:読売ジャイアンツ(3年連続9回目)
個人タイトル
ベストナイン
オールスターゲーム
ドラフト会議
高校野球
大学野球
社会人野球
メジャーリーグ
4月
4月7日 - 第39回選抜高校野球大会の決勝戦が午後1時2分より甲子園球場にて行われ、津久見高校が高知高校を延長10回の末2-1で破り優勝[ 2] 。
4月8日
4月11日 - サンケイの徳武定祐 がこの日の神宮球場での対広島1回戦に出場せず、連続試合出場の記録が821試合で途絶える[ 6] 。
4月25日 - 東京の坂井勝二 が東京スタジアムでの対東映4回戦に先発し、東映を9回まで無安打無得点に抑えるが、10回表先頭打者の種茂雅之 に三塁打を打たれた後2失点し、チームは東映に0-2で敗戦したため敗戦投手となる[ 7] 。
5月
6月
7月
7月7日
サンケイは5月23日から休養していた監督の飯田徳治 が8日の対阪神戦から監督に復帰すると発表[ 29] 。
東映の伊藤芳明 が後楽園球場での対南海15回戦の九回表に小池兼司 から三振を奪い、プロ通算1000奪三振を達成[ 30] 。
7月10日
巨人の王貞治 が川崎球場での対大洋15回戦の2回表に25号本塁打を放ち、プロ通算1000安打を達成[ 31] 。
巨人は前富士鉄広畑の監督の前川八郎 がスカウト部長に就任したと発表[ 32] 。
7月19日 - 東映の白仁天 が後楽園球場での対近鉄14回戦の9回裏、3-5と二点リードされた場面で本塁打を放ち逆転サヨナラ本塁打となるところが、白は前の走者の吉田正昭を追い越したため、白はアウトとなり、「3点本塁打」が「2点適時打」となり同点にとどまる。試合も延長10回近鉄に6-5と敗戦[ 33] 。
7月23日 - セ・パ両リーグ共に前半戦の日程が終了。セは巨人が2位と6.5ゲーム差の首位、パ・リーグは阪急が2位の8ゲーム差の首位[ 34] 。
7月30日 - 東京スタジアムでの東京対阪急のダブルヘッダー第1試合の2回無死一、二塁の場面で、阪急の二塁手の住友平 が一人でトリプルプレー を達成[ 35] 。
8月
8月6日 - 巨人の田中久寿男 が神宮球場での対サンケイ戦16回戦に出場し、プロ通算1000試合出場を達成[ 36] 。
8月14日 - 巨人の長島茂雄 が後楽園球場での対サンケイ19回戦の1回裏に14号本塁打を放ち、プロ通算250本塁打を達成[ 37] 。
8月15日 - 東京はオーナーの永田雅一が東京・京橋の大映本社で午前10時より記者会見を行い、監督が戸倉勝城 に代わりヘッドコーチの濃人渉 が昇格したと発表[ 38] 。
8月31日 - 巨人の王貞治 が後楽園球場での対サンケイ戦で1回裏に39号本塁打、3回裏に40号本塁打を放ち、プロ通算300本塁打を達成[ 39] 。
9月
9月7日 - 西鉄の若生忠男 が平和台球場での対阪急22回戦に登板し、プロ通算500試合登板を達成[ 40] 。
9月10日 - 阪神対巨人戦で阪神の藤井栄治 、中日対大洋戦で中日の高木守道 、広島対サンケイ戦で広島の鎌田豊 がサヨナラホームランを放った。史上初めて3カードが同日にサヨナラゲーム、しかもホームランで決着した。[ 41]
9月17日
西鉄の若生忠男 が西宮球場での対阪急26回戦に先発し、ノーヒットノーランを達成[ 42] 。
巨人の長島茂雄 が後楽園球場での対サンケイ25回戦の6回裏に三塁打を放ち、プロ通算1500安打を達成[ 43] 。
9月23日 - 後楽園球場での阪神対大洋24回戦の1回表、二死満塁で打者森中千香良 のカウント2ストライクからの3球目の判定に対し、阪神の監督の藤本定義 が主審の大谷泰司 に抗議。約30分後に試合が再開されたが、審判団はプレーボールの状態で1分待ったが阪神の選手がグラウンドに入らなかったとして、阪神の放棄試合を宣告[ 44] 。
10月
10月1日 - 阪急は西京極球場での対東映ダブルヘッダー第一試合10-6と勝利し、大阪球場での南海対西鉄ダブルヘッダー第二試合で西鉄が南海に4-5と敗戦したため、阪急のリーグ優勝が決まる[ 45] 。
10月3日 - 大洋の監督の三原脩 が東京の自宅にて、今シーズン限りで退団すると表明[ 46] 。
10月4日 - 大洋は監督の三原脩 の退団を認めたと発表[ 47] 。
10月7日 - 巨人のリーグ優勝が決定。2位の中日が中日球場での対サンケイダブルヘッダー第一試合の24回戦に5-9でサンケイに敗れたため[ 48] 。
10月10日
巨人の堀内恒夫 が後楽園球場での対広島22回戦に先発し、ノーヒットノーランを達成。また打撃では2、4、6回と3打席連続本塁打を記録[ 49] 。
阪急の梶本隆夫 が西宮球場での対西鉄27回戦の八回表に伊藤光四郎 から三振を奪い、プロ通算2500奪三振を達成[ 50] 。
10月14日 - 阪神の山内一弘 が東京スタジアムでの対サンケイダブルヘッダー第二試合24回戦の8回裏に安打を放ち、プロ通算2000安打を達成[ 51] 。
10月17日 - パ・リーグは東京球場での東京対近鉄ダブルヘッダー25、26回戦を消化し、全日程を終了[ 52] 。
10月19日 - セ・リーグは神宮球場でのサンケイ対広島ダブルヘッダー26、27回戦を消化し、全日程を終了[ 53] 。
10月21日 - プロ野球オーナー会議が午後5時半から西宮市の料亭「つる家」で行われ、東京のオーナーの永田雅一 が来季の公式戦を136試合とし、そのうち30試合を両リーグによる交流戦を30試合行うことを提案[ 54] 。
10月23日 - 広島は監督の長谷川良平 に対して解任を通告[ 55] 。
10月28日 - 日本シリーズ が西宮球場にて行われ、巨人が阪急に9-3で勝ち4勝2敗で下し、3年連続の日本一を達成[ 56] [ 57] 。
10月30日 - プロ野球の最優秀選手、最優秀新人、ベストナインを決定する記者投票の開票が午前10時30分から東京・銀座のコミッショナー事務局にて行われ、午後3時、同事務局は最優秀選手にセ・リーグは巨人の王貞治 、パ・リーグは阪急の足立光宏 、最優秀新人にセ・リーグはサンケイの武上四郎 、パ・リーグは東映の高橋善正 が選出されたと発表[ 58] 。
10月31日
沢村賞の選考が東京運動記者クラブによって正午から東京・有楽町の「レバンテ」にて行われ、中日の小川健太郎 を選出[ 59] 。
中日は名古屋市中区の中日新聞本社にて、中日新聞常務取締役の小山武夫が球団社長に就任したと発表[ 60] 。
11月
12月
誕生
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
死去
出典
^ a b 当時連盟表彰なし
^ 毎日新聞1967年4月7日夕刊1面「センバツ 初陣の津久見優勝 延長12回 高知高を破る」毎日新聞縮刷版1967年4月p175
^ 毎日新聞1967年4月8日夕刊10面「プロ野球ひらく 後楽園では昼と夜と」毎日新聞縮刷版1967年4月p212
^ 毎日新聞1967年4月9日13面「南海"開幕"に七連勝 小山の力投(通算三振奪取二千五百)及ばず」毎日新聞縮刷版1967年4月p227
^ 読売新聞1967年4月9日8面「醍醐は千試合出場」読売新聞縮刷版1967年4月p228
^ 毎日新聞1967年4月12日13面「徳武の連続出場がストップ」毎日新聞縮刷版1967年4月p299
^ 毎日新聞1967年4月26日13面「健闘坂井、また悲劇 九回を無安打、十回ダウン」毎日新聞縮刷版1967年4月p695
^ 毎日新聞1967年5月4日13面「尾崎、完投で百勝目 宿敵の南海を最下位に」毎日新聞縮刷版1967年5月p85
^ 毎日新聞1967年5月5日13面「広瀬プロ入り百号ホーマー」毎日新聞縮刷版1967年5月p113
^ 毎日新聞1967年5月18日13面「小玉が千七百十試合出場のパ新記録」毎日新聞縮刷版1967年5月p425
^ 毎日新聞1967年5月19日13面「巨人の勝率8割 大洋 桑田の二百号むなし」毎日新聞縮刷版1967年5月p453
^ 毎日新聞1967年5月19日13面「中日の西沢監督が休養」毎日新聞縮刷版1967年5月p453
^ 毎日新聞1967年5月20日13面「小山(東京)が二百五十勝 史上五人目、完投で飾る」毎日新聞縮刷版1967年5月p481
^ 読売新聞1967年5月23日11面「田淵(法大)が9、10号 本塁打の新記録」読売新聞縮刷版1967年5月p583
^ 毎日新聞1967年5月24日13面「飯田監督は不振を苦に休養」毎日新聞縮刷版1967年5月p583
^ 読売新聞1967年6月1日11面「張本二百ホーマー」読売新聞縮刷版1967年6月p11
^ 毎日新聞1967年6月3日13面「三原・大洋監督も休養 代理は別当ヘッドコーチ」毎日新聞縮刷版1967年6月p73
^ a b 毎日新聞1967年6月7日13面「長池(四打席連続ホーマー)杉浦に10、11号 梶本は完封で二百勝」毎日新聞縮刷版1967年6月p185
^ 『ベースボールマガジン 』、ベースボール・マガジン社 、2012年11月、72頁。
^ 毎日新聞1967年6月8日13面「金田、16奪三振のセ新記録」毎日新聞縮刷版1967年6月p213
^ 毎日新聞1967年6月15日13面「安打数でパ新記録 東京の榎本」毎日新聞縮刷版1967年6月p403
^ 読売新聞1967年6月19日11面「葛城千五百本安打」読売新聞縮刷版1967年6月p515
^ 読売新聞1967年6月19日11面「国松が千試合出場」読売新聞縮刷版1967年6月p515
^ 毎日新聞1967年6月20日13面「戸倉監督(東京)も休養 濃人ヘッドコーチ きょうから指揮」毎日新聞縮刷版1967年6月p541
^ 毎日新聞1967年6月21日13面「葛城が千五百試合出場を記録」毎日新聞縮刷版1967年6月p565
^ 毎日新聞1967年6月22日13面「葛城が通算百五十号本塁打」毎日新聞縮刷版1967年6月p593
^ 毎日新聞1967年6月24日13面「巨人の柳田が南海へ」毎日新聞縮刷版1967年6月p651
^ 毎日新聞1967年6月25日13面「救援金田、痛い押し出し 小川12勝 豊田はプロ入り250号」毎日新聞縮刷版1967年6月p679
^ 毎日新聞1967年7月8日17面「産経の飯田監督きょうから復帰」毎日新聞縮刷版1967年7月p217
^ 読売新聞1967年7月8日11面「伊藤(東映)が奪千三振」読売新聞縮刷版1967年7月p211
^ 毎日新聞1967年7月11日13面「桑田2ラン2発 王の千本安打(25号)及ばず」毎日新聞縮刷版1967年7月p297
^ 読売新聞1967年7月11日11面「巨人に前川氏 スカウト部長に就任」読売新聞縮刷版1967年7月p295
^ 毎日新聞1967年7月20日13面「真夏の夜の珍事 白(東映)幻の逆転サヨナラ3ラン 走者追い越して単打 試合も延長で敗れる」毎日新聞縮刷版1967年7月p530
^ 毎日新聞1967年7月24日13面「巨人・阪急、大差でUターン プロ野球、前半戦を終わる」毎日新聞縮刷版1967年7月p639
^ 読売新聞1967年8月1日11面「伊藤(東映)が奪千三振」読売新聞縮刷版1967年8月p11
^ 読売新聞1967年8月7日11面「田中、千試合飾る1号」読売新聞縮刷版1967年8月p169
^ 読売新聞1967年8月15日11面「巨人、15安打でサンケイ粉砕 長島は通算250号 城之内、完投で16勝」読売新聞縮刷版1967年8月p381
^ 読売新聞1967年8月15日夕刊6面「新監督に濃人氏 東京オリオンズ」読売新聞縮刷版1967年8月p392
^ 読売新聞1967年9月1日8面「王、プロ入り三百号 39、40号連続3ランで飾る」読売新聞縮刷版1967年9月p8
^ 読売新聞1967年9月8日9面「若生(西鉄)五百試合登板」読売新聞縮刷版1967年9月p201
^ INC, SANKEI DIGITAL (2019年9月5日). “DeNA・筒香、サヨナラ弾!「メークラミクル」へGに再接近2・5差 ”. サンスポ . 2024年3月1日閲覧。
^ 読売新聞1967年9月18日11面「若生(西鉄)ノーヒットノーラン "あと9勝"の阪急押える」読売新聞縮刷版1967年9月p475
^ 読売新聞1967年9月18日11面「長島が千五百本安打 城之内、サンケイを完封」読売新聞縮刷版1967年9月p475
^ 読売新聞1967年9月24日9面「阪神が試合放棄 判定に不満で中断 再開準備中に宣告」読売新聞縮刷版1967年9月p649
^ 読売新聞1967年10月2日1面「阪急が初優勝 プロ野球パ・リーグ」読売新聞縮刷版1967年9月p25
^ 朝日新聞1967年10月4日13面「三原監督が辞意 大洋」朝日新聞縮刷版1967年10月p93
^ 朝日新聞1967年10月5日「三原監督が正式退団 後任は別当コーチ昇格」朝日新聞縮刷版1967年10月p129
^ 読売新聞1967年10月7日夕刊1面「巨人22回目の優勝 セ・リーグ "日本一"かけ阪急と対決」読売新聞縮刷版1967年10月p189
^ 読売新聞1967年10月11日9面「堀内(巨人)投打に快記録 投手初の連続3ホーマー 無安打得点は今季二人目」読売新聞縮刷版1967年10月p289
^ 読売新聞1967年10月11日9面「張本が3割3分6厘 梶本は奪三振二千五百」読売新聞縮刷版1967年10月p289
^ 読売新聞1967年10月15日9面「権藤(阪神)防御率トップ 山内は二千本安打 川上に次ぎ史上2人目」読売新聞縮刷版1967年10月p409
^ 読売新聞1967年10月18日8面「首位打者は張本 パ・リーグ全日程を終える」読売新聞縮刷版1967年10月p488
^ 読売新聞1967年10月20日9面「初の"最多出塁"に王 セ・リーグ全日程終わる」読売新聞縮刷版1967年10月p553
^ 読売新聞1967年10月22日9面「公式戦に両リーグ交流 オーナー会議 永田氏の"提案"検討」読売新聞縮刷版1967年10月p609
^ 読売新聞1967年10月24日11面「長谷川監督(広島)を解任 松田オーナーも辞意」
^ 読売新聞1967年10月28日夕刊1面「巨人三年連続の日本一 日本シリーズ 阪急に四勝二敗」読売新聞縮刷版1967年10月p793
^ 読売新聞1967年10月29日9面「巨人、15安打で9回目の栄冠 長島、王が足立を攻略」読売新聞縮刷版1967年10月p813
^ 読売新聞1967年10月31日11面「プロ野球 最優秀選手きまる セは王(3回目)パは足立(初めて)新人王に武上(サンケイ)高橋(東映)」読売新聞縮刷版1967年10月p871
^ 読売新聞1967年11月1日9面「沢村賞に小川投手(中日)ものいった29勝」読売新聞縮刷版1967年11月p9
^ 読売新聞1967年11月1日9面「中日新社長に小山氏」読売新聞縮刷版1967年11月p9
^ 読売新聞1967年11月2日11面「サンケイ監督に別所氏 楠ヘッドコーチ 飯田体制を一新」読売新聞縮刷版1967年11月p39
^ 毎日新聞1967年11月7日「三原監督決まる 近鉄、正式に就任を発表」縮刷版p185
^ 読売新聞1967年11月2日11面「三原近鉄監督正式に就任」読売新聞縮刷版1967年11月p187
^ 読売新聞1967年11月10日9面「プロ野球新人選択会議 巨人、高田を指名 南海藤原、近鉄は三輪田」読売新聞縮刷版1967年11月p277
^ 読売新聞1967年11月15日9面「"潤滑油的役割を" 巨人 白石ヘッドコーチを発表」読売新聞縮刷版1967年11月p417
^ 読売新聞1967年11月21日11面「中部利大洋社長が就任」読売新聞縮刷版1967年11月p595
^ 読売新聞1967年11月25日11面「益田、吉田勝西鉄へ 巨人、井上善と交換発表」読売新聞縮刷版1967年10月p715
^ 読売新聞1967年11月25日9面「"殿堂入り"ことしも見送り 野球体育館」読売新聞縮刷版1967年11月p715
^ 毎日新聞1967年11月26日13面「東映新監督に大下弘氏 水原解任"電撃的組閣"で幕」毎日新聞縮刷版縮刷版p729
^ 読売新聞1967年11月29日11面「中日代表代理に東方氏」読売新聞縮刷版1967年11月p825
^ 読売新聞1967年12月6日11面「塩原(巨人)の引退決定」読売新聞縮刷版1967年12月p151
^ 読売新聞1967年12月6日11面「本堂、近鉄コーチ就任」読売新聞縮刷版1967年12月p151
^ 読売新聞1967年12月6日11面「阪神・川崎コーチが辞任」読売新聞縮刷版1967年12月p151
^ 読売新聞1967年12月7日11面「木原(近鉄)は大洋へ」読売新聞縮刷版1967年12月p179
^ 読売新聞1967年12月8日11面「藤本博(阪神)が引退」読売新聞縮刷版1967年12月p219
^ 読売新聞1967年12月13日11面「サンケイ コーチに赤坂氏も」読売新聞縮刷版1967年12月p359
^ 読売新聞1967年12月19日11面「球団名は『広島東洋カープ』 監督に根本コーチ昇格」読売新聞縮刷版1967年12月p539
^ 読売新聞1967年12月27日11面「東方氏(中日)代表に昇格」読売新聞縮刷版1967年12月p751
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