1967年の大洋ホエールズとは? わかりやすく解説

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1967年の大洋ホエールズ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/09 13:46 UTC 版)

1967年の大洋ホエールズ
成績
セントラル・リーグ4位
59勝71敗5分 勝率.454[1]
本拠地
都市 神奈川県川崎市
球場 川崎球場
球団組織
オーナー 中部謙吉
経営母体 大洋漁業
監督 三原脩
« 1966
1968 »

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1967年の大洋ホエールズでは、1967年の大洋ホエールズの動向をまとめる。

この年の大洋ホエールズは、三原脩監督の8年目のシーズンである。

概要

前年サンケイと同率の最下位に沈んだチームは打撃陣のテコ入れを図るべく、ディック・スチュアートを獲得。また外野手転向の江尻亮がこの年からレギュラー定着し、また捕手陣では伊藤勲に次ぐ2番手捕手として福嶋久晃が入団し、投手陣も秋山登島田源太郎に代わるエース候補として平松政次が入団するなど徐々に1960年の初優勝メンバーから別当薫体制への転換がはかられた。この年三原監督・別当ヘッドコーチの2頭体制でスタートしたチームだが、投手陣は高橋重行稲川誠、この年入団の山下律夫などが健闘するもそれ以外の投手は不調で、チームはサンケイと4位争いを演じた。最終的に1ゲーム差でサンケイを振り切ったものの、この年3連覇の巨人に25ゲーム、2位中日に13ゲームも離されて三原監督は辞任。新監督には別当ヘッドコーチが昇格した。シーズン途中には平松が都市対抗終了後に入団し、すぐにプロ入り初勝利をあげる明るい話題もあった。

チーム成績

レギュラーシーズン

開幕オーダー
1 近藤昭仁
2 江尻亮
3 近藤和彦
4 桑田武
5 松原誠
6 林健造
7 松岡功祐
8 伊藤勲
9 森中千香良
1967年セントラル・リーグ順位変動
順位 4月終了時 5月終了時 6月終了時 7月終了時 8月終了時 9月終了時 最終成績
1位 巨人 -- 巨人 -- 巨人 -- 巨人 -- 巨人 -- 巨人 -- 巨人 --
2位 阪神 阪神 6.5 中日 6.0 中日 6.5 中日 17.0 中日 15.0 中日 12.0
3位 大洋 1.0 中日 7.5 阪神 8.0 阪神 10.0 阪神 17.5 阪神 15.5 阪神 14.0
4位 中日 2.5 サンケイ 10.0 サンケイ 13.0 サンケイ 13.0 大洋 22.5 大洋 23.0 大洋 25.0
5位 広島 3.5 大洋 13.5 大洋 16.0 大洋 17.0 サンケイ 24.0 サンケイ 26.0 サンケイ 26.0
6位 サンケイ 8.0 広島 16.5 広島 17.0 広島 19.5 広島 30.0 広島 34.5 広島 37.0


1967年セントラル・リーグ最終成績
順位 球団 勝率
優勝 読売ジャイアンツ 84 46 4 .646 ---
2位 中日ドラゴンズ 72 58 4 .554 12.0
3位 阪神タイガース 70 60 6 .538 14.0
4位 大洋ホエールズ 59 71 5 .454 25.0
5位 サンケイアトムズ 58 72 5 .446 26.0
6位 広島カープ 47 83 8 .362 37.0

[1]

オールスターゲーム

ファン投票 選出なし
監督推薦 森中千香良 近藤和彦 桑田武
補充選手 松原誠
  • 取り消し線は出場辞退

できごと

  • 5月16日 - 後楽園球場での対巨人戦の1回裏、小野正一投手が「3者連続三振なのに1失点」という珍記録。
  1. 先頭打者・柴田勲を三振。これで1死。
  2. 続く土井正三が2-1から空振り三振、ところが伊藤勲捕手がパスボール、土井は振り逃げで一塁へ生きる。
  3. 続く王貞治は三振、これで3連続三振ながら2死一塁。
  4. 次打者・長嶋茂雄への初球を伊藤捕手がパスボール、土井は二塁へ進塁、その後三盗を決めた直後、長嶋は三塁ゴロ。三塁手・桑田武が一塁へ送球したが、一塁手のディック・スチュアートが捕球失敗しエラー、土井が生還して1点。
  • 5月18日 - 桑田武が後楽園球場での対巨人8回戦の2回表に5号本塁打を放ち、プロ通算200号本塁打を達成[2]
  • 6月2日 - 三原脩監督が休養し、ヘッドコーチの別当薫が監督を務めると発表[3]
  • 10月3日 - 三原脩監督が東京の自宅にて、今シーズン限りで退団すると表明[4]
  • 10月4日 - 三原脩監督の退団を認めたと発表[5]

選手・スタッフ

表彰選手

リーグ・リーダー
受賞者なし
ベストナイン
選手名 ポジション 回数
近藤和彦 外野手 2年ぶり6度目[注 1]

脚注

注釈

  1. ^ 1960年に一塁手部門で受賞しており、通算7度目。

出典

  1. ^ a b 年度別成績 1967年 セントラル・リーグ”. 日本野球機構. 2017年5月26日閲覧。
  2. ^ 毎日新聞1967年5月19日13面「巨人の勝率8割 大洋 桑田の二百号むなし」毎日新聞縮刷版1967年5月p453
  3. ^ 毎日新聞1967年6月3日13面「三原・大洋監督も休養 代理は別当ヘッドコーチ」毎日新聞縮刷版1967年6月p73
  4. ^ 朝日新聞1967年10月4日13面「三原監督が辞意 大洋」朝日新聞縮刷版1967年10月p93
  5. ^ 朝日新聞1967年10月5日「三原監督が正式退団 後任は別当コーチ昇格」朝日新聞縮刷版1967年10月p129



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