1967年の大洋ホエールズ では、1967年の大洋ホエールズ の動向をまとめる。
この年の大洋ホエールズは、三原脩 監督の8年目のシーズンである。
概要 前年サンケイ と同率の最下位に沈んだチームは打撃陣のテコ入れを図るべく、ディック・スチュアート を獲得。また外野手転向の江尻亮 がこの年からレギュラー定着し、また捕手陣では伊藤勲 に次ぐ2番手捕手として福嶋久晃 が入団し、投手陣も秋山登 や島田源太郎 に代わるエース候補として平松政次 が入団するなど徐々に1960年 の初優勝メンバーから別当薫 体制への転換がはかられた。この年三原監督・別当ヘッドコーチの2頭体制でスタートしたチームだが、投手陣は高橋重行 や稲川誠 、この年入団の山下律夫 などが健闘するもそれ以外の投手は不調で、チームはサンケイと4位争いを演じた。最終的に1ゲーム差でサンケイを振り切ったものの、この年3連覇の巨人 に25ゲーム、2位中日 に13ゲームも離されて三原監督は辞任。新監督には別当ヘッドコーチが昇格した。シーズン途中には平松が都市対抗終了後に入団し、すぐにプロ入り初勝利をあげる明るい話題もあった。
チーム成績 レギュラーシーズン 1967年セントラル・リーグ順位変動 順位 4月終了時 5月終了時 6月終了時 7月終了時 8月終了時 9月終了時 最終成績 1位 巨人 -- 巨人 -- 巨人 -- 巨人 -- 巨人 -- 巨人 -- 巨人 -- 2位 阪神 阪神 6.5 中日 6.0 中日 6.5 中日 17.0 中日 15.0 中日 12.0 3位 大洋 1.0 中日 7.5 阪神 8.0 阪神 10.0 阪神 17.5 阪神 15.5 阪神 14.0 4位 中日 2.5 サンケイ 10.0 サンケイ 13.0 サンケイ 13.0 大洋 22.5 大洋 23.0 大洋 25.0 5位 広島 3.5 大洋 13.5 大洋 16.0 大洋 17.0 サンケイ 24.0 サンケイ 26.0 サンケイ 26.0 6位 サンケイ 8.0 広島 16.5 広島 17.0 広島 19.5 広島 30.0 広島 34.5 広島 37.0
[1]
オールスターゲーム できごと 5月16日 - 後楽園球場での対巨人戦の1回裏、小野正一 投手が「3者連続三振なのに1失点」という珍記録。 先頭打者・柴田勲 を三振。これで1死。 続く土井正三 が2-1から空振り三振、ところが伊藤勲 捕手がパスボール、土井は振り逃げ で一塁へ生きる。 続く王貞治 は三振、これで3連続三振ながら2死一塁。 次打者・長嶋茂雄 への初球を伊藤捕手がパスボール、土井は二塁へ進塁、その後三盗を決めた直後、長嶋は三塁ゴロ。三塁手・桑田武 が一塁へ送球したが、一塁手のディック・スチュアート が捕球失敗しエラー、土井が生還して1点。 5月18日 - 桑田武 が後楽園球場での対巨人8回戦の2回表に5号本塁打を放ち、プロ通算200号本塁打を達成[2] 。 6月2日 - 三原脩 監督が休養し、ヘッドコーチの別当薫 が監督を務めると発表[3] 。 10月3日 - 三原脩監督が東京の自宅にて、今シーズン限りで退団すると表明[4] 。 10月4日 - 三原脩監督の退団を認めたと発表[5] 。 選手・スタッフ 表彰選手 脚注 注釈 ^ 1960年に一塁手部門で受賞しており、通算7度目。 出典 ^ a b “年度別成績 1967年 セントラル・リーグ ”. 日本野球機構 . 2017年5月26日 閲覧。 ^ 毎日新聞1967年5月19日13面「巨人の勝率8割 大洋 桑田の二百号むなし」毎日新聞縮刷版1967年5月p453 ^ 毎日新聞1967年6月3日13面「三原・大洋監督も休養 代理は別当ヘッドコーチ」毎日新聞縮刷版1967年6月p73 ^ 朝日新聞1967年10月4日13面「三原監督が辞意 大洋」朝日新聞縮刷版1967年10月p93 ^ 朝日新聞1967年10月5日「三原監督が正式退団 後任は別当コーチ昇格」朝日新聞縮刷版1967年10月p129 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代 1953年開幕直前に松竹ロビンス と球団合併