土井正三
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土井 正三(どい しょうぞう、1942年6月28日 - 2009年9月25日)は、兵庫県神戸市出身のプロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
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- ^ a b c 【じっくりとっくり】土井正三(巨人コーチ) イチローには教えられたかな 毎日新聞(1996年2月11日)
- ^ 元巨人・土井正三氏、死去 ~V9巨人の絆とイチロー秘話~
- ^ パンチ佐藤 変わり果てた元同僚・野村貴仁氏は「野球バカ」│NEWSポストセブン
- ^ 前出のインタビュー記事(毎日新聞1996年2月11日付)では当時のイチローは「5番目の外野手」であったと評価している。
- ^ 東京スポーツ2010年11月2日「イチロー700日戦争」第12回 河村健一郎
- ^ GYAO!のイチローインタビュー動画「イチローの第1歩」(2010年3月)
- ^ スポニチアネックス
- ^ 文藝春秋2018年二月号、平成6年 イチロー「勝負の年」の二百本安打、鈴木宣之 イチローの父、251頁
- ^ 『イチロー 北野武 キャッチボール』(2003年)
- ^ 『イチローに糸井重里が聞く キャッチボール ICHIRO meets you』(2003年)
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- ^ 読む野球-9回勝負-No.8、2015年、P165、主婦の友社
- ^ “忘れられない延長12回完投引き分け!野茂英雄は171球で12奪三振、僕は198球13奪三振【野田浩司連載#11】”. 東京スポーツ (2021年8月11日). 2023年5月5日閲覧。
- ^ a b c 初めて明かす 僕とフォークと奪三振・野田浩司(元阪神・オリックス) - 日刊ゲンダイ2011年9月22日付
- ^ テリー伊藤著、お笑いプロ野球殿堂 ダメ監督列伝、P124-125,土井正三、V9ブランドに憑依された哀しみの「黒子」監督、光文社,2004年
- ^ 『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶』ベースボール・マガジン社
- ^ 『週刊プロ野球データファイル』2013年98号、ベースボール・マガジン社、2013年、P10
- ^ パンチ佐藤 が迫る】 清原和博 ・ イチロー を指導した名打撃コーチ 土井 ・ 新井 のぶっちゃけ話。やりづらかった監督、やりやすかった監督は!? - YouTube
- ^ 永谷脩著、超一流の育て方 (中経の文庫)KADOKAWA/中経出版)、2013年、P198-P201
- ^ スポーツニッポン2020年12月24日、11版、松永浩美の我が道㉓、4毛差でまたも首位打者を逃す
- ^ 【藤井康雄連載コラム】長嶋さんが新監督の話を断って土井さんに…東京スポーツ、2020年10月23日
- ^ 【セ・パ誕生70年記念特別企画】よみがえる1980年代のプロ野球 EXTRA(2) [パ・リーグ編] (週刊ベースボール別冊初冬号)ベースボール・マガジン社、2020年、67頁
- ^ a b 監督から投げつけられた帽子「俺のサインに不服か?」 終焉覚悟したプロ人生の危機full-count
- ^ 娘の障害発覚、妻の死が転機に「野球への未練は断ち切れた」 星野監督に愛された元プロ野球選手は接骨院を経営まいどなニュース、2021.07.19
- ^ [https://www2.myjcom.jp/npb/column/20220603.shtml <コーチの横顔2022>イップス克服した名外野手・田口壮愛弟子・福田周平に授けた「読み」二宮清純コラム プロ野球ガゼット、2022年06月03日
- ^ この時は開幕から二軍落ちまで代走で起用された試合は無く、二軍落ち直前の4月23日・対ダイエー2回戦(神戸)の7回裏一死一塁に代打で二ゴロ、入れ替わりで出塁した後に牽制で追い出されアウト(記録は盗塁刺)になったことを指していると思われる
- ^ ただし、土井監督就任時の1991年から1993年の3年間で完封は8試合あるが、この中に1安打完封試合は無い。最小被安打は1991年7月16日・対ダイエー10回戦(平和台)の2安打
- ^ ただし、1991年にスリーバントを失敗した試合は、オリックスで最後の出場になった5月16日・対日本ハム8回戦(神戸)。代打ではなく「9番・中堅手」でスタメン出場し、6回裏無死一塁(第2打席)で記録している。
- ^ 『ベースボールマガジン』1992年秋 - 監督-熱きドラマを演出する男たち、ベースボール・マガジン社、1992年[要ページ番号]。
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