南牟礼豊蔵とは? わかりやすく解説

南牟礼豊蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/26 02:54 UTC 版)

南牟礼 豊蔵
基本情報
国籍 日本
出身地 宮崎県都城市
生年月日 (1960-12-09) 1960年12月9日(64歳)
身長
体重
178 cm
80 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1981年 ドラフト3位
初出場 1982年9月22日
最終出場 1994年10月6日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

南牟礼 豊蔵(みなみむれ とよぞう、1960年12月9日 - )は、宮崎県都城市出身の元プロ野球選手外野手)。

来歴・人物

1960年12月9日宮崎県都城市で生まれる。「南牟礼」という名字は鹿児島県東部の大隅半島付近を発祥と言われ、鹿児島県大隅町に多いとされる。全国的には僅か40名ほどしか確認されていないという[1]

宮崎県立都城工業高等学校では黒原祐二(のちに西武ライオンズ)と同期で、卒業後は電電九州に就職して1980年から2年連続で都市対抗野球大会に出場を果たす。

1981年ドラフト会議阪急ブレーブスから3巡目で指名されたが、電電九州は他に横浜大洋ホエールズから右田一彦が1巡目、村岡耕一が3巡目で指名されており、同い年かつ同期入社組3名が揃ってプロ入りを果たした。契約金は1位指名石嶺和彦4000万円を凌ぐ5000万円であった。担当スカウト山本公士[2]

1983年にプロ初本塁打を放つが、バントの構えからのヒッティングで本塁打となった。これに対して、当時広島東洋カープからトレードで加入したばかりの水谷実雄から「バスターは転がすもの。フライを打ってたまたま入った本塁打を喜ぶな」と怒られてしまい、苦い初本塁打となってしまう。

1989年は開幕から先発起用され、4月末の時点で打率.327を記録して打撃成績上位に名を連ねていたが、5月に入ると打撃の調子が下降し、シーズン中盤以降は本西厚博熊野輝光の起用が増え、次第に試合終盤の途中出場に留まる。それでも自己最多となる106試合に出場。

1990年には背番号を0へ変更したが、試合出場数は大幅に少ない14試合に終わる。

1991年土井正三が監督に就任すると戦力構想から外れ、かつての同僚である大橋穣が在籍している中日ドラゴンズの監督である星野仙一に直訴し[3]、同年5月に川畑泰博との交換トレードで中日へ移籍する。

1993年シーズン終了後に中日を自由契約となり、阪神タイガースへ移籍した。

1994年には外野守備に不安がある石嶺和彦の補佐として重用され、打撃面でも勝負強さから真弓明信長嶋清幸米崎薫臣とともに代打四人衆として活躍した。

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災では同僚の弓長起浩と被災地に出向き、炊き出しや飲料水、携帯ガスコンロ、オムツ、風邪薬などを被災地に運んで被災者を救護する活動を行った。同年は一軍出場が無いままシーズン終了後に自由契約を言い渡され、翌1996年2月に福岡ダイエーホークスから入団テストを受験するよう勧誘されたが、受験中に膝を外す重傷を負ったことで断念し、そのまま現役を引退した[4]

1997年からラジオ関西野球解説者として活動した[5]。また、プロ野球マスターズリーグでは「大阪ロマンズ」に所属し、2001年度(初年度)は内野手不足のために現役時代には馴染みの無い遊撃手として活躍し、ベストナインに選ばれた。

一方で、1996年整体師の資格を取得[5]し、2005年柔道整復師の専門学校を卒業して国家資格を取得後、兵庫県西宮市に「みなみむれ接骨院」を開業した[5][6]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1982 阪急
オリックス
6 6 6 2 2 0 0 0 2 0 0 1 0 0 0 0 0 2 0 .333 .333 .333 .667
1983 84 137 125 24 28 2 2 2 40 13 11 4 1 2 9 0 0 19 3 .224 .272 .320 .592
1984 30 17 16 5 4 1 0 0 5 5 3 0 1 0 0 0 0 2 0 .250 .250 .313 .563
1986 71 128 121 7 26 3 0 0 29 7 4 0 1 0 6 0 0 20 4 .215 .252 .240 .492
1987 2 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
1988 51 86 74 9 18 2 2 0 24 7 0 2 5 1 6 0 0 11 3 .243 .296 .324 .621
1989 106 192 156 18 44 8 0 2 58 17 9 3 14 1 21 3 0 23 6 .282 .365 .372 .737
1990 14 7 7 3 2 1 0 0 3 1 2 0 0 0 0 0 0 2 0 .286 .286 .429 .714
1991 9 7 4 1 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 2 0 1 1 1 .000 .429 .000 .429
中日 52 129 118 14 35 5 0 6 58 14 0 2 5 0 6 0 0 17 6 .297 .331 .492 .822
'91計 61 136 122 15 35 5 0 6 58 14 1 2 5 0 8 0 1 18 7 .287 .336 .475 .811
1992 18 23 22 3 4 0 0 1 7 1 0 0 1 0 0 0 0 4 1 .182 .182 .318 .500
1993 7 6 6 0 1 0 0 0 1 1 0 0 0 0 0 0 0 2 1 .167 .167 .167 .333
1994 阪神 96 96 89 20 22 3 1 2 33 12 2 3 0 0 7 1 0 19 0 .247 .302 .371 .673
通算:12年 546 837 747 106 186 25 5 13 260 78 32 15 28 4 57 4 1 122 25 .249 .302 .348 .650
  • 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

記録

背番号

  • 32 (1982年 - 1989年)
  • 0 (1990年 - 1991年途中)
  • 40 (1991年途中 - 1993年)
  • 35 (1994年 - 1995年)

脚注

関連項目

外部リンク


南牟礼豊蔵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:18 UTC 版)

ビートたけしのオールナイトニッポン」の記事における「南牟礼豊蔵」の解説

当時阪急ブレーブス在籍プロ野球選手。その面白い名前とユニークなエピソードが度々ネタにされた。

※この「南牟礼豊蔵」の解説は、「ビートたけしのオールナイトニッポン」の解説の一部です。
「南牟礼豊蔵」を含む「ビートたけしのオールナイトニッポン」の記事については、「ビートたけしのオールナイトニッポン」の概要を参照ください。

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