南燕征伐、五斗米道撃退とは? わかりやすく解説

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南燕征伐、五斗米道撃退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 18:29 UTC 版)

劉裕」の記事における「南燕征伐、五斗米道撃退」の解説

劉裕東晋国内発言力高めた一方桓玄残党らは北西後秦逃げ込んだ。西では成都譙縦謀反起こし後蜀打ち立て北部では南燕北魏勢力伸ばしていた。南では孫恩より五斗米道軍を引き継いだ盧循地盤築きつつあった。これら周辺勢力討伐劉裕求められた。 元興3年404年3月盧循が海伝い番禺破り広州刺史の呉隠之をとらえ、実効支配をなした。ただし盧循広州地産品などを献上してきたため、政府盧循支配追認広州刺史としている。 義熙4年408年1月車騎将軍につけられたが、同年9月劉敬宣劉牢之の子)が後蜀討伐失敗任命責任負い中軍将軍降格となる。 義熙5年409年2月南燕軍が東晋との国境付近大規模な略奪をなし、およそ千世帯が被害遭った劉裕3月南燕征伐宣言多くの者が反対したが、孟昶臧熹謝裕らの後押しを受け、敢行した。7月には南燕首都広固城を包囲したが、410年2月陥落までには半年上の期間を要した同月劉裕不在好機見た盧循広州より北上建康との中間地点にあたる豫章にて何無忌敗死させた。この事態を受け劉裕南燕鮮卑人三千余り穴埋めにして殺害急遽南下し4月建康入り果たした5月劉裕制止振り切り迎撃出た劉毅五斗米道軍に敗退孟昶は「臣が五斗米道どもに付け入る隙を与えてしまった。この危機は臣の罪である」と、仰ぎ自殺した劉裕建康守りまともに整えられないうちに、盧循軍は建康接近そのまま上陸し攻め立てられれば敗北必至であったが、盧循敢えて上陸をせず様子見をする作戦をとったことから、最悪事態回避される。その間劉裕戦闘可能な兵力石頭城集結させ、休息及び装備再分配をなし、周辺地域より集結してきた救援勢力合わせて各地兵力配した。このとき命令違反をなす将兵は殺すなど、命令徹底尽くした結果建康防衛成功逃亡開始する盧循軍に対し追撃義熙7年411年)には盧循討ち果たす南燕征伐盧循討伐の功から、太尉に昇進した。

※この「南燕征伐、五斗米道撃退」の解説は、「劉裕」の解説の一部です。
「南燕征伐、五斗米道撃退」を含む「劉裕」の記事については、「劉裕」の概要を参照ください。

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