後蜀
後蜀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:16 UTC 版)
孟昶(後蜀後主)(演:劉亜津(中国語版)、※友情出演) 後蜀の皇帝。淫乱奢侈に耽り、政務を怠け遊びに現を抜かし、国を甚だ乱した暗君。花蕊夫人(徐蕊)を溺愛し、豪勢な花蕊宮を新築するほどの有様だった。 宋が後蜀に帰順を要請した際、これを達観して拒否。宋が後蜀を攻めようとすると、北漢・南唐(江南国)に救援要請を行い、宋を挟撃しようと図ったが、失敗に終わる。 後蜀が宋軍によって攻め滅ぼされた後、宋朝に投降。汴京に連行された後、趙匡胤によって死罪を免じられ、秦国公に封じられ、さらに中書令&検校太師に任じられた。加えて、汴京に豪華な邸宅を賜り、貴族待遇の安穏とした暮らしを許された。だが、「花蕊夫人を後宮に送り込みたい」と目論んだ趙光義に、その存在を邪魔者と見なされ、最後は趙光義によって毒殺された。 徐蕊(花蕊夫人)(演:殷桃(中国語版)) 後蜀皇帝・孟昶の寵妃。成都の名望高い大儒学者・徐銘の娘。南唐の大臣・徐鉉の姪。趙匡胤の皇后・王月虹の生き写しであり、その容姿は極めて酷似している(※作中では、主演の殷桃が王月虹と徐蕊の二役を演じている)。作中での描写に拠れば、西暦947年生まれで、趙匡胤より20歳年下。 絶世の美女で、舞踊や琵琶の演奏、詩作などの才に優れる。夫・孟昶から異常なほどに強く寵愛されている。後蜀にいた頃の住まいは花蕊宮。孟昶には2年間仕えた。夫・孟昶の荒淫無道ぶりを嫌っていたが、自分を寵愛してくれることには強く感謝しており、孟昶との夫婦の情愛は非常に深かった。 見識・学識ともに深く、国政にも関心が厚い。さらに、祖国「後蜀」への強い愛国心を併せ持っている。 宋が後蜀を攻めようとした際は、自身の叔父で南唐(江南国)の翰林学士承旨でもある徐鉉に密書を送り、救援要請を行った。 後蜀の滅亡後、夫・孟昶と共に宋に降伏し、汴京に連行される。孟昶が趙光義に毒殺された後、後宮に移り住み、金城夫人(女官)に封じられ、福寧宮にて起居し、蜀国の史籍を修訂した。加えて、趙匡胤の良くない行いを直接諫める権限も与えられた。なお、あくまで亡夫・孟昶への貞節を貫き、趙匡胤の嬪妃にはならなかった。 作中での言及に拠れば、もとは天真爛漫な性格だったが、後蜀滅亡後、風変わりで物静かな性格に変貌してしまったとのこと。 当初は、「孟昶毒殺の真犯人が趙匡胤である」と強く疑っていたが、趙匡胤と長く接していくにつれ、その優れた人となりを認め、疑いは解けた。趙匡胤のことを名君として高く評価し、その仁徳にも深く敬慕している。当初は後宮にあっても趙匡胤とは疎遠だったが、やがて趙匡胤と心が通じ合い、段々と趙匡胤に惹かれ、愛情が芽生えていくようになる。そして趙匡胤とは一種のプラトニックな関係になった。 最後は趙匡胤の好意・真心に心を許し、勤政殿で一夜を共にして男女の交わりを結んだ。その翌日、手下の調べで「孟昶と小蝶を毒殺したのが趙光義である」との確かな情報を得て、趙匡胤に対して、「宋の天下のために、凶悪残忍な野心家・趙光義を誅殺してください」と強く請うたが、趙匡胤にこの諫言を受け入れられず、最後は絶望し、自害して果てた。
※この「後蜀」の解説は、「大宋伝奇之趙匡胤」の解説の一部です。
「後蜀」を含む「大宋伝奇之趙匡胤」の記事については、「大宋伝奇之趙匡胤」の概要を参照ください。
- >> 「後蜀」を含む用語の索引
- 後蜀のページへのリンク