北漢とは? わかりやすく解説

ほく‐かん【北漢】

読み方:ほくかん

中国五代十国の一。後漢(こうかん)滅亡後951年一族劉崇山西建国。都は晋陽979年に宋に降りて五代十国分裂が終わる。


北漢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/10 09:53 UTC 版)

北漢
951年 - 979年

  北漢
公用語 漢語(中国語
首都 太原
皇帝
951年 - 954年 世祖神武帝
954年 - 968年睿宗孝和帝
968年 - 968年少帝
968年 - 979年英武帝
変遷
建国 951年
によって滅亡979年

北漢(ほくかん、951年 - 979年)は、中国五代十国時代山西省北部を支配した国。都は太原

歴史

北漢の建国者の劉崇は、テュルク系突厥沙陀族である「後漢」(こうかん)の建国者の劉知遠の弟である。

後漢の第2代皇帝劉承祐(隠帝)が武将の郭威によって殺されると、劉崇は任地である太原で自立の気配を見せたが、郭威が劉崇の長男で劉知遠の養子の劉贇を次の新しい皇帝に擁立しようという動きがあったので取りやめる。

しかしその後、郭威が劉贇を殺して自ら皇帝に即位し、後漢を滅ぼして「後周」を建国した。

劉崇はその動きに対抗して、後漢を北で再興して自ら皇帝に即位した。こうして「北漢」が成立した(951年)。

北漢の皇帝になった劉崇は、表向きは皇帝でも、実際は単独で後周に対抗する大きな力をまだ持っていなかった。そこで劉崇は、北の「」に救いを求め、それ以後の北漢は遼の衛星国家として、遼の兵力を持って後周と対立することにした。

954年後周の郭威が死去して柴栄(世宗)が即位すると、北漢の劉崇はその隙を突くべく、翌年、北漢の大軍を南下させて後周に侵攻した。

そして、沢州高平の巴公原(現在の山西省晋城市沢州県巴公鎮)で後周軍と北漢軍が激突した。

当初は北漢軍が有利に戦況を進めていたが、後周の将軍の趙匡胤の奮戦によって敗北し、北漢軍は太原へ逃げ帰り、間もなく劉崇は死去した。

その後、北漢では、次男の劉鈞が後を継いで皇帝に即位して、内政に力を入れて国を立て直そうとするが、957年に後周の柴栄によって北漢の領土を奪われた。

その後、後周では趙匡胤に禅譲が行われて後周が滅んで「」が成立した(陳橋の変)。

北漢はこのからも強い圧力を受け、北漢の国内はますます混乱状態に陥った。

968年に劉鈞が死去し、劉崇の娘の子で劉鈞の養子の劉継恩が擁立されるが、すぐに殺されて同母異父弟の劉継元(同じく劉鈞の養子であった)が北漢の皇帝に即位した。

北漢皇帝の劉継元は宦官に政治を任せ、帝位のライバルとなる血縁者を次々と殺して回ったので、北漢の政治は混乱した。

979年太宗親征軍を受けて北漢は降伏し、北漢は滅びた。

これによりによる中国統一が完成した。その後、劉継元は宋から彭城公に封ぜられて天寿を全うした。

北漢の統治者

  1. 世祖神武帝 劉崇895年 - 954年、在位:951年 - 954年)
  2. 睿宗孝和帝 劉鈞926年 - 968年、在位:954年 - 968年)
  3. 少帝(少主、廃帝) 劉継恩(? - 968年、在位:968年)
  4. 英武帝 劉継元(? - 991年?、在位:968年 - 979年
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
劉知遠(1)
 
 
 
 
 
劉崇1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
劉承祐(2)
 
劉贇
 
劉鈞2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
劉継恩3
 
劉継元4
 
  • 1 - 4:北漢皇帝
  • (1),(2):後漢皇帝

関連項目

脚注



北漢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:16 UTC 版)

大宋伝奇之趙匡胤」の記事における「北漢」の解説

劉継元(北漢英武帝)(演:鄒東孝) 北漢の第4代皇帝英明見識の深い君主劉鈞養子劉継恩同母異父弟。 異父兄の皇帝劉継恩殺害された後、宰相郭無為によって擁立され、皇位就いた冤罪で牢に収監されていた楊継業を完全に許し大将軍抜擢。さらに遼(契丹)にも援軍求め、宋の攻撃頑強に対抗した。宋が太原水攻めしたときは、自ら陣頭指揮執り懸命に対処当たった劉鈞(北漢睿宗)(演:程軒) 北漢の第2代皇帝したたか狡猾な性格君主劉崇息子宋朝成立直後呂余慶和平使者として北漢を訪れた際、口だけは友和承諾したが、実際は嘘を付き反乱軍筠と手を組んで宋を攻撃しよう図った。そして、自ら5000援軍兵を率いて澤州赴いたが、味方した筠側が不利だ悟り2000の兵を率いていち早く本国退却3000の兵を宰相衛融預けて澤州残し事態静観した。 楊継業(劉継業)(演:趙振坤) 北漢の名将大将軍。北漢の忠臣異名は楊無敵趙匡胤が「北漢攻めにおける最大強敵」とひどく恐れ、「自身部下にしたい」と望んだほどの猛将。 後に宋太宗(趙光義)に仕える。『楊家将演義』の主人公一人楊業として後世非常に有名だが、作中ではまだ北漢に仕え武将呂余慶太原使者として赴いた際、群臣の中の先頭紛れている。 西暦969年供奉官・恵磷の策に掛かって牢獄収監されていた。だが、承旨学士李惲建言により牢から釈放され皇帝劉継元によって冤罪を完全に許された。それに加え国姓である「劉姓」を授かり、また建雄軍節度使任じられ、北漢の大将軍復帰した対宋戦では、南面行営都部署として京城2万の兵を率い主将として宋軍に応戦した。 まずは、宋の先鋒継勲の大軍撃退成功また、柏谷において趙匡胤率いる宋の本軍奇襲攻撃仕掛けた。団柏谷敗れた後は、太原へ繋がる要道汾河にて再び堅く守り徹し、宋軍に勇敢に抗戦汾河敗れた後は太原に退くも、宋軍の猛攻対し大い善戦し1か月以上太原守り抜いた。 宋が北漢に最後通牒突き付け水攻め予告した際も、怯まず徹底抗戦唱えた郭無為中国語版)(演:邱雲鶴) 北漢の宰相劉鈞によって宰相抜擢され政務司った劉鈞死後即位した劉継恩との間に確執生じ激しく対立するようになった。そして、友人供奉官・恵磷唆されて、劉継恩裏切り、宋側の内応者になりかけた。 だがその後暗君劉継恩近臣殺害されると、その不慮の死乗じて聡明な皇子劉継元新帝擁立した劉継恩とは対立するも、自分推戴し新帝劉継元には厚く忠誠誓っていた。劉継元即位後は宋の内応者をやめ、しばらくは主君劉継元のために力を尽くして働いていた。 しかし、宋が北漢に最後通牒突き付け水攻め予告したことで、流石に怖気付き皇帝劉継元に対して宋への降伏強く説いた。そして、自分説得劉継元飲ませるべく、もっともらしく死諫のふりをしようとしたが、承旨学士李惲にこの芝居見破られ彼に本当に殺されてしまった。 李惲(演:于従海) 北漢の重臣。承旨学士。北漢の忠臣冤罪で牢に収監されていた将軍楊継業潔白主張し主君劉継元に対してその再起用を強く説いたまた、劉継元の命を受け、使者として遼の都・上京に赴き、遼穆宗(耶律璟)に謁見巧みに耶律璟説き伏せ、これによって北漢は遼国の援軍を得ることに成功した。 宋が北漢に最後通牒突き付け水攻め予告した際も、怯まず徹底抗戦唱えた。そして、宋への降伏強く唱える宰相郭無為死諫芝居を見破り自身の手郭無為誅殺した。 恵磷(演:王輝) 北漢の大臣供奉官。衛融従弟。宋の北漢攻めの際の内応者。 同窓友人である宰相郭無為推薦受けて供奉となった早くから北漢を裏切り従兄衛融通じて宋に投降。宋の内応者として働き、宋側に北漢の内部情報盛んにリークした。また、北漢の朝廷にあって盛んに内応工作行い宰相郭無為朝廷大臣たちに対し、宋への帰順説いて回った。 しかし、宰相郭無為李惲誅殺された後、宋との内通露見し裏切り者として同じく誅殺されてしまった。

※この「北漢」の解説は、「大宋伝奇之趙匡胤」の解説の一部です。
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北漢

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固有名詞

ほくかん

  1. 中国史五代十国一つ後漢滅亡翌年劉崇建国した。


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