後周とは? わかりやすく解説

こう‐しゅう〔‐シウ〕【後周】

読み方:こうしゅう

[一]中国五代最後の王朝。951年郭威(かくい)が後漢(こうかん)を滅ぼして建国。都は汴京(べんけい)(開封)。960年、宋の趙匡胤(ちょうきょういん)に滅ぼされた。周。ごしゅう

[二]北周別称


ご‐しゅう〔‐シウ〕【後周】

読み方:ごしゅう

こうしゅう(後周)


後周

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/31 13:14 UTC 版)

後周(こうしゅう、951年 - 960年)は、中国の王朝で、五代の最後の王朝である。国号は単にであるが、古代のと区別するために後周と呼ぶ。都は開封にあった。




「後周」の続きの解説一覧

後周

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:16 UTC 版)

大宋伝奇之趙匡胤」の記事における「後周」の解説

郭威(後周太祖)(演:盧勇(中国語版)) もとは劉知遠仕える有力武将であり、後漢建国にも貢献後漢成立後大将軍として兵権握った劉知遠死後その子劉承祐(隠帝)に仕えた反乱起こした河中護国節度使李守貞討伐し、李守貞自害追い込んだ。だが、劉承祐郭威忠誠心をひどく疑い都に人質として拘留していたその家族皆殺しにした。 劉承祐家族皆殺しにされたことを知ると激怒し反乱決意柴栄趙匡胤らに黄袍着せられ皇帝になり、兵を率いて後漢の都・汴京攻め劉承祐自害追い込んだ西暦951年正式に皇帝即位し、後周を建国3年後西暦954年養子柴栄(※郭威正妻の甥)に皇位譲って病死した。 柴栄(後周世宗)(演:呉暁東(中国語版)) 五代屈指の明君名高い後周の皇帝。後周世宗郭威正妻の甥で、郭威養子郭威軍の有力武将。郭威軍に身を投じた趙匡胤のことを強く気に入り自身親兵(侍従)とした。河中城攻め(李守貞討伐)では的確な献策行い反乱制圧において大い活躍その後郭威後漢への反乱にも付き従い郭威皇帝擁立する際は大きな役割果たした。 後周の成立後澶州節度使任じられ現地赴任したその後郭威崩御際し皇位継承して、後周の第二皇帝となった皇帝即位後は、腹心武将趙匡胤大い重用し天下統一大志を果たすべく北漢討伐南唐討伐行い領土拡張さらには遼(契丹)を攻め燕雲十六州一部奪回することにも成功した契丹遠征途上重病罹り汴京帰還病床にあって信頼していた忠臣趙匡胤への猜疑心強め、その存在危惧し趙匡胤毒殺しようとまでするほどだった。だがその後符彦卿説得によって趙匡胤忠心を一応は信じ、彼を殿前都点検任じた西暦959年に病によって39歳若さ崩御7歳皇太子柴宗訓皇位譲った。なお、趙匡胤存在には最後まで少なからず不安を抱いており、遺言で彼を帰徳節度使任じ宋州左遷さらには万一備え重臣韓通に「趙匡胤謀反兆し有れば、その一族皆殺しにせよ」との密詔残した符茗(符皇后符太后)(演:田雨晴) 柴栄二番目皇后柴宗訓継母符彦卿次女。符苓の妹。符昭寿符蓉の姉。姉・符苓の死後柴栄皇后となった住まいは福寧宮。皇后として柴栄献身的に尽くす。 柴栄死後皇太后となり、幼君柴宗訓補佐し臨朝称政に当たった重臣趙匡胤忠誠心疑い、酒を賜ってこれを試したその後趙匡胤謀叛意思知って憤慨し、兵を発動して趙匡胤反乱軍一味誅滅しようと目論んだが、宦官王継恩の裏切りに遭い失敗その結果「陳の兵変」が勃発し、後周は滅亡強いられる。 後周が滅び宋朝成立すると、趙匡胤によって周太后封じられ、鄭王・柴宗訓とともに洛陽に赴き、貴族待遇安穏とした暮らし送った潞州節度使筠が宋朝への反乱起こした際、呼応要求されたがこれを拒否。むしろ宋朝の利を第一に重んじて逆賊討伐檄文出し、叛将・筠を破滅追い込んだ韓通中国語版)(演:宋来運) 柴栄信頼厚い武将。後周の有力将軍大臣。韓珪の父。勇敢な将軍だが、傲慢負けん気強く残忍な一面もある。 趙匡胤とは旧怨があり、仲が良くないかねてより趙匡胤忠義に強い猜疑心抱いており、策を弄して度々趙匡胤を陥れようとしたが、いずれも失敗終わった柴栄死後、その遺言によって、輔政大臣&同平章事任じられ幼君柴宗訓補佐。さらに、「趙匡胤謀反兆し有れば、その一族皆殺しにせよ」との密詔拝命した。その後、韓珪の策に従い仮病使って趙匡胤自宅呼び寄せ、彼を誅殺しようと図った。しかし、かえって趙匡胤丸め込まれ趙匡胤和解して義兄弟契りまでも結んでしまう有様だった。その優柔不断さは、息子・韓珪にも呆れられる始末である。 やがて「陳の兵変」が勃発し趙匡胤反乱軍汴京攻め入ると、兵を率いてこれに応戦。しかし、張瓊との戦い敗れ討ち死にした。 韓珪(演:軒(中国語版)) 韓珪の一人息子冷静沈着頭脳明晰で、忠孝正義厚く武芸にも優れる。弩の名手でもある。後周の臣下カテゴリーしたが、後周での官職には就いていない。ただ後周への忠義に厚く、父・韓珪の死後は後周の遺臣としても活動した当初趙匡胤警戒しつつも柔軟な考えだった。だがやがて趙匡胤謀叛意思を知ると、趙匡胤を超危険人物見なし、彼を誅殺しようと考えた。だが趙匡胤誅殺計画は、父・韓珪の婦人の仁により大失敗その後趙匡胤謀叛意思符太后密告し趙匡胤反乱軍一味誅殺せんと図ったが、宦官王継恩致命的な裏切りによりまたしても策は失敗その後「陳の兵変」が勃発し、父・韓通趙匡胤反乱軍殺されると、父・韓通仇討ちと後周再興のために、後周の遺臣として活動始める。まずは反乱起こしていた揚州刺史李重進のもとに身を投じ、匡復将軍任じられ宋朝反抗揚州戦いでは、得意の弩で趙匡胤射殺しようと図ったが、張瓊の邪魔が入りあと一歩のところで失敗李重進反乱軍窮地陥ると、江南国(南唐)へ救援要請赴いたが、援軍を得ることはできなかった。 李重進反乱軍壊滅する暫く行方くらませていた。その後太后葬儀際し葬列襲撃し趙匡胤暗殺しようとしたが、これも失敗張瓊捕縛されたが、趙匡胤に罪は問われず、釈放された。 趙匡胤暗殺失敗後は、華山にて出家し道士(華山道士)になった道士になった後は、趙匡胤への恨みひとまず捨て、心をきっぱり入れ替え世直しのために各地放浪し民情視察。民のために正義を果たすべく尽力し不正な役人を度々趙匡胤告発した父の死から10年上後洛陽において符昭寿不法行為目の当たりにし、さらには符昭寿強姦されそうになっていた美女姫燕珏救出したその後符昭寿符彦卿大罪直接趙匡胤告発し二人誅罰与えることに成功姫燕珏救った縁で彼女に求婚され、その申し出受け入れることを決意。父・韓通墓前姫燕珏と愛を誓い合って晴れて結婚し新たな人生門出迎えたちなみに趙匡胤は、かねてより韓珪の見識の高さやその義侠心正義感強さ高く買っており、「彼を還俗させて宋に仕官させ、暫く御史台官吏として務めさせ、その後高齢劉温叟代えて新たな御史中丞任命したい」と強く望んでいた。だが韓珪は、趙匡胤好意感謝しつつも、自由気まま人生良しとし、朝廷への仕官丁重に固辞した李重進中国語版)(演:李泓瑞) 後周の有力な将軍郭威(後周太祖)の娘婿(駙馬都尉)。柴栄(後周世宗)の義理の兄弟。 柴栄南唐攻めに参陣。陽山戦いで趙匡胤協力して戦い大活躍。敵の名将陳承昭生け捕りにする功績挙げた侍衛馬歩軍都指揮使として侍衛親軍司を統括し京城12禁軍指揮。後周において非常に強大な兵権有し、その存在には趙匡胤趙普趙匡義らもひどく警戒していた。 やがて趙匡胤策略謀反嫌疑掛けられ柴栄から強い猜疑心向けられ始めたその後柴栄遺言揚州左遷され南唐侵攻を防ぐ任を与えられた。 柴栄崩御し柴宗訓(後周恭帝)が即位すると、後周を見限って揚州の地で反乱起こした宋朝成立した後、帰順促されるもこれを拒否南唐救援要請を行うもあえなく失敗しその後、宋・呉越国連合軍(10万)に揚州城を激しく攻められ最後戦死した

※この「後周」の解説は、「大宋伝奇之趙匡胤」の解説の一部です。
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