こう‐しゅう〔‐シウ〕【後周】
ご‐しゅう〔‐シウ〕【後周】
読み方:ごしゅう
⇒こうしゅう(後周)
後周
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/09 04:17 UTC 版)
後周(こうしゅう、951年 - 960年)は、中国の王朝で、五代の最後の王朝である。国号は単に周であるが、古代の周と区別するために後周と呼ぶ。都は開封にあった。
歴史
後漢の実力者であった郭威は、皇帝の劉承祐(隠帝)に排除されそうになるが、逆に劉承祐に対して反乱を起こした。郭威の反乱に触発されて劉承祐が家臣に殺されると、郭威は開封に入って自ら皇帝に即位し、新王朝の「後周」を建国した。
劉承祐によって郭威の息子や一族が皆殺しにされてしまったため、954年に郭威が死去すると、その亡妻の甥で養子の柴栄が即位した。これが五代随一の名君と言われる世宗である。
世宗(柴栄)は内政に積極的に取り組み、国力を充実させると、唐崩壊以来果たされなかった中国の再統一を目指し、北漢・後蜀・南唐・遼を攻めて領土を広げたが、遼遠征の途中病気にかかり、959年に若くして死んだ。
世宗の死後、遺児である7歳の柴宗訓が後を継いだが、間もなく幼帝に不安を抱いた軍人たちは、遠征に派遣された軍中でその司令官であった殿前都点検(近衛軍長官)の趙匡胤を擁立した。
ほとんど抵抗を受けずに開封に入った趙匡胤は、恭帝から禅譲を受けて宋を立てた(陳橋の変)。
こうして後周は3代で滅亡したが、趙匡胤は柴宗訓の守役に自身の師である辛文悦を任命して、前皇帝を殺害する意思が無い事を明らかにした(もし柴宗訓を殺したならば守役も同時に殺さねばならないため)。そして、柴宗訓が病気のために早世すると、皇帝として葬った。趙匡胤の遺訓により、柴宗訓の子孫は南宋が終わるまで手厚く保護され、300年続いた。
後周の皇帝
代数 | 廟号(諡号) | 名前 | 在位 |
---|---|---|---|
1 | 太祖 | 郭威 | 951年 - 954年 |
2 | 世宗 | 柴栄 | 954年 - 959年 |
3 | 恭帝 | 柴宗訓 | 959年 - 960年 |
系図
郭威1 | 聖穆皇后 | 柴守礼 | |||||||||||||||||||||||||||||
柴栄2 | |||||||||||||||||||||||||||||||
柴宗訓3 | |||||||||||||||||||||||||||||||
後周の元号
元号 | 年数 | |
---|---|---|
1 | 広順 | 951年 - 954年 |
2 | 顕徳 | 954年 - 960年 |
関連項目
脚注
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後周
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:16 UTC 版)
郭威(後周太祖)(演:盧勇(中国語版)) もとは劉知遠に仕える有力武将であり、後漢の建国にも貢献。後漢成立後、大将軍として兵権を握った。 劉知遠の死後、その子の劉承祐(隠帝)に仕えた。反乱を起こした河中護国節度使・李守貞を討伐し、李守貞を自害に追い込んだ。だが、劉承祐は郭威の忠誠心をひどく疑い、都に人質として拘留していたその家族を皆殺しにした。 劉承祐に家族を皆殺しにされたことを知ると激怒し、反乱を決意。柴栄や趙匡胤らに黄袍を着せられて皇帝になり、兵を率いて後漢の都・汴京を攻め、劉承祐を自害に追い込んだ。 西暦951年、正式に皇帝に即位し、後周を建国。3年後の西暦954年、養子の柴栄(※郭威の正妻の甥)に皇位を譲って病死した。 柴栄(後周世宗)(演:呉暁東(中国語版)) 五代屈指の明君と名高い後周の皇帝。後周世宗。 郭威の正妻の甥で、郭威の養子。郭威軍の有力武将。郭威軍に身を投じた趙匡胤のことを強く気に入り、自身の親兵(侍従)とした。河中城攻め(李守貞討伐)では的確な献策を行い、反乱制圧において大いに活躍。その後、郭威の後漢への反乱にも付き従い、郭威を皇帝に擁立する際は大きな役割を果たした。 後周の成立後、澶州節度使に任じられ、現地に赴任した。その後、郭威の崩御に際し皇位を継承して、後周の第二代皇帝となった。 皇帝即位後は、腹心の武将・趙匡胤を大いに重用し、天下統一の大志を果たすべく北漢討伐や南唐討伐を行い、領土を拡張。さらには遼(契丹)を攻め、燕雲十六州の一部を奪回することにも成功した。 契丹遠征の途上で重病に罹り、汴京に帰還。病床にあって信頼していた忠臣・趙匡胤への猜疑心を強め、その存在を危惧し、趙匡胤を毒殺しようとまでするほどだった。だがその後、符彦卿の説得によって趙匡胤の忠心を一応は信じ、彼を殿前都点検に任じた。 西暦959年に病によって39歳の若さで崩御。7歳の皇太子・柴宗訓に皇位を譲った。なお、趙匡胤の存在には最後まで少なからず不安を抱いており、遺言で彼を帰徳節度使に任じ、宋州に左遷。さらには万一に備え、重臣の韓通に「趙匡胤に謀反の兆し有れば、その一族を皆殺しにせよ」との密詔を残した。 符茗(符皇后・符太后)(演:田雨晴) 柴栄の二番目の皇后。柴宗訓の継母。符彦卿の次女。符苓の妹。符昭寿・符蓉の姉。姉・符苓の死後、柴栄の皇后となった。住まいは福寧宮。皇后として、柴栄に献身的に尽くす。 柴栄の死後、皇太后となり、幼君・柴宗訓を補佐し、臨朝称政に当たった。重臣・趙匡胤の忠誠心を疑い、酒を賜ってこれを試した。その後、趙匡胤の謀叛の意思を知って憤慨し、兵を発動して趙匡胤ら反乱軍一味を誅滅しようと目論んだが、宦官・王継恩の裏切りに遭い、失敗。その結果「陳橋の兵変」が勃発し、後周は滅亡を強いられる。 後周が滅び、宋朝が成立すると、趙匡胤によって周太后に封じられ、鄭王・柴宗訓とともに洛陽に赴き、貴族待遇の安穏とした暮らしを送った。 潞州節度使・李筠が宋朝への反乱を起こした際、呼応を要求されたがこれを拒否。むしろ宋朝の利を第一に重んじて、逆賊討伐の檄文を出し、叛将・李筠を破滅に追い込んだ。 韓通(中国語版)(演:宋来運) 柴栄の信頼厚い武将。後周の有力将軍・大臣。韓珪の父。勇敢な将軍だが、傲慢で負けん気が強く、残忍な一面もある。 趙匡胤とは旧怨があり、仲が良くない。かねてより趙匡胤の忠義に強い猜疑心を抱いており、策を弄して度々趙匡胤を陥れようとしたが、いずれも失敗に終わった。 柴栄の死後、その遺言によって、輔政大臣&同平章事に任じられ、幼君・柴宗訓を補佐。さらに、「趙匡胤に謀反の兆し有れば、その一族を皆殺しにせよ」との密詔を拝命した。その後、韓珪の策に従い、仮病を使って趙匡胤を自宅に呼び寄せ、彼を誅殺しようと図った。しかし、かえって趙匡胤に丸め込まれ、趙匡胤と和解して義兄弟の契りまでも結んでしまう有様だった。その優柔不断さは、息子・韓珪にも呆れられる始末である。 やがて「陳橋の兵変」が勃発し、趙匡胤の反乱軍が汴京に攻め入ると、兵を率いてこれに応戦。しかし、張瓊との戦いに敗れ、討ち死にした。 韓珪(演:李雨軒(中国語版)) 韓珪の一人息子。冷静沈着・頭脳明晰で、忠孝・正義に厚く、武芸にも優れる。弩の名手でもある。後周の臣下にカテゴリーしたが、後周での官職には就いていない。ただ後周への忠義に厚く、父・韓珪の死後は後周の遺臣としても活動した。 当初は趙匡胤を警戒しつつも柔軟な考えだった。だがやがて趙匡胤の謀叛の意思を知ると、趙匡胤を超危険人物と見なし、彼を誅殺しようと考えた。だが趙匡胤誅殺計画は、父・韓珪の婦人の仁により大失敗。その後、趙匡胤の謀叛の意思を符太后に密告し、趙匡胤と反乱軍一味を誅殺せんと図ったが、宦官・王継恩の致命的な裏切りによりまたしても策は失敗。 その後「陳橋の兵変」が勃発し、父・韓通が趙匡胤の反乱軍に殺されると、父・韓通の仇討ちと後周再興のために、後周の遺臣として活動を始める。まずは反乱を起こしていた揚州刺史・李重進のもとに身を投じ、匡復将軍に任じられ、宋朝に反抗。揚州の戦いでは、得意の弩で趙匡胤を射殺しようと図ったが、張瓊の邪魔が入り、あと一歩のところで失敗。李重進の反乱軍が窮地に陥ると、江南国(南唐)へ救援要請に赴いたが、援軍を得ることはできなかった。 李重進の反乱軍が壊滅すると暫く行方をくらませていた。その後、杜太后の葬儀に際し、葬列を襲撃して趙匡胤を暗殺しようとしたが、これも失敗。張瓊に捕縛されたが、趙匡胤に罪は問われず、釈放された。 趙匡胤暗殺失敗後は、華山にて出家し、道士(華山道士)になった。道士になった後は、趙匡胤への恨みをひとまず捨て、心をきっぱり入れ替え、世直しのために各地を放浪し、民情を視察。民のために正義を果たすべく尽力し、不正な役人を度々趙匡胤に告発した。 父の死から10年以上後、洛陽において符昭寿の不法行為を目の当たりにし、さらには符昭寿に強姦されそうになっていた美女・姫燕珏を救出した。 その後、符昭寿・符彦卿の大罪を直接趙匡胤に告発し、二人に誅罰を与えることに成功。姫燕珏を救った縁で彼女に求婚され、その申し出を受け入れることを決意。父・韓通の墓前で姫燕珏と愛を誓い合って晴れて結婚し、新たな人生の門出を迎えた。 ちなみに趙匡胤は、かねてより韓珪の見識の高さやその義侠心・正義感の強さを高く買っており、「彼を還俗させて宋に仕官させ、暫く御史台の官吏として務めさせ、その後高齢の劉温叟に代えて、新たな御史中丞に任命したい」と強く望んでいた。だが韓珪は、趙匡胤の好意に感謝しつつも、自由気ままな人生を良しとし、朝廷への仕官を丁重に固辞した。 李重進(中国語版)(演:李泓瑞) 後周の有力な将軍。郭威(後周太祖)の娘婿(駙馬都尉)。柴栄(後周世宗)の義理の兄弟。 柴栄の南唐攻めに参陣。陽山の戦いでは趙匡胤と協力して戦い、大活躍。敵の名将・陳承昭を生け捕りにする功績を挙げた。 侍衛馬歩軍都指揮使として侍衛親軍司を統括し、京城の12万の禁軍を指揮。後周において非常に強大な兵権を有し、その存在には趙匡胤・趙普・趙匡義らもひどく警戒していた。 やがて趙匡胤の策略で謀反の嫌疑を掛けられ、柴栄から強い猜疑心を向けられ始めた。その後、柴栄の遺言で揚州に左遷され、南唐の侵攻を防ぐ任を与えられた。 柴栄が崩御し柴宗訓(後周恭帝)が即位すると、後周を見限って揚州の地で反乱を起こした。宋朝が成立した後、帰順を促されるもこれを拒否。南唐に救援要請を行うもあえなく失敗し、その後、宋・呉越国の連合軍(10万)に揚州城を激しく攻められ、最後は戦死した。
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