皇帝即位後
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「ゲオルギ1世テルテル」の記事における「皇帝即位後」の解説
生存していたイヴァイロはビザンツ軍に勝利を収めてタルノヴォに戻ると、イヴァン・アセン3世はブルガリアから逃亡してビザンツの宮廷に亡命する。一方、ゲオルギ・テルテルは利己的なタルノヴォの貴族に支持され、ブルガリア皇帝に即位した。ゲオルギはイヴァイロの軍と争うが、イヴァイロの軍は疲弊して配下の農民たちは戦線から離脱し、困窮したイヴァイロはジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)の有力者ノガイの元に逃亡した。 イヴァイロとイヴァン・アセン3世が没落した後、ゲオルギはシチリア王国のカルロ1世、セルビア王国のステファン・ドラグティン、エピロス専制侯国と同盟し、ビザンツに対抗した。しかし、シチリアの晩祷によってシチリア王国は混乱し、1282年にシチリアとの同盟は破棄される。また、この頃ブルガリアはしばしばノガイの侵入に晒され、国土は荒廃していた。ゲオルギはセルビアに援助を求め、1284年にステファン・ウロシュ2世ミルティンの元に娘のアンナを嫁がせた。 1282年にビザンツ皇帝ミカエル8世が没してから、ゲオルギはビザンツとの交渉を再開し、人質として送った妻マリアの返還を要求した。両国の間で協定が結ばれた結果、マリアがブルガリアに帰国し、代わりに皇后だったキラ・マリアがビザンツに人質として送られた。ゲオルギは帰国したテオドル・スヴェトスラフを共同統治者に任命した。 1285年のノガイの侵入後、ゲオルギは人質としてテオドルをノガイの元に送り、娘をノガイの子チャカの元に嫁がせた。
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皇帝即位後
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「イヴァイロ (ブルガリア皇帝)」の記事における「皇帝即位後」の解説
イヴァン・アセン3世を擁する東ローマ軍の侵攻を知ったイヴァイロとマリアは和解し、結婚した。幼年のミハイルを廃嫡せず帝位の継承権を保障することを条件に、1278年にイヴァイロはブルガリアの帝位に就いた。しかし、貴族たちの反対に遭って社会制度を改革することはできなかった。 それでもイヴァイロはイヴァン・アセン3世を擁立する南方からの東ローマ軍への迎撃を指揮し、北方から侵入するモンゴル軍の撃退にも成功する。1279年、イヴァイロはドナウ川沿岸部のドルスタル(現在のシリストラ)の要塞でモンゴルの大軍に3か月の間包囲を受けた。イヴァイロがタルノヴォを留守にしている間に彼が戦死した噂が流れ、ゲオルギ・テルテルを中心としたタルノヴォの貴族たちはイヴァン・アセン3世を新たな皇帝に擁立する。マリアとミハイルは東ローマに追放され、代わってイヴァン・アセン3世がタルノヴォに入城した。 翌1279年にイヴァイロは軍隊を率いてタルノヴォに戻るが、タルノヴォの守備隊の武装を解除することはできなかった。それでもなお、イヴァイロはデヴニャの戦い(英語版)で東ローマの大軍に勝利する。 1280年にイヴァン・アセン3世が反乱の鎮圧を諦めてタルノヴォから脱出した後、イヴァン・アセン3世の義兄弟であるゲオルギ・テルテルが皇帝に即位する。新たに出現したライバルであるゲオルギ1世はイヴァイロと敵対する貴族と連合し、イヴァイロは徐々に支持者を失っていく。疲弊した農民兵はイヴァイロの元を離れていき、武装も貧弱であったためにイヴァイロはゲオルギ・テルテルに敗北した。 1280年(あるいは1281年)、イヴァイロは帝位の奪還のため、従属と引き換えに援助を得るためにノガイの元に向かうが、イヴァン・アセン3世もノガイに援助を求めようとしていた。結局、ノガイは義兄弟であるイヴァン・アセン3世(両者はミカエル8世の娘と結婚していた)の求めに応じ、宴席の座でイヴァイロを殺害した。
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皇帝即位後
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さかのぼって太清6年(552年)4月、蜀に拠る武陵王蕭紀が皇帝を称した。8月、蕭紀が東征を開始したため、元帝は陸法和らを派遣して防戦にあたらせるいっぽう、西魏に要請して蕭紀の本領である蜀に進入して後背を脅かすように求めた。承聖2年(553年)、西魏の実権を握る宇文泰はこれに応じ、尉遅迥を派遣して関中と蜀を結ぶ要所の潼州と蕭紀の本拠地である成都を占領した。元帝は蕭紀を打倒することには成功したものの、蜀を西魏に奪われることとなってしまった。 元帝は蜀を西魏に与えたことを後悔し、西魏に対して国境の原状回復を求め、一方で北斉に働きかけて西魏を攻撃させようとした。西魏は元帝の裏切りに反発するとともに、早くから西魏に臣従の姿勢をみせてきた蕭詧を庇護する名目から、承聖3年(554年)に蕭詧を梁の正統として擁立し、于謹を総大将として江陵に攻め込んだ。 元帝は王琳や王僧弁らに救援を求めたが、西魏軍に江陵を攻め落とされ、捕らえられた。同年12月に蕭詧によって土嚢を積まれて圧殺された。西魏は蕭詧を梁の皇帝として即位させた(後梁の宣帝)。 一方、建康にいた王僧弁は、元帝の九男の蕭方智(敬帝)を皇帝に擁立した。
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