東ローマ軍の侵攻(535年6月 - 536年12月)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 06:25 UTC 版)
「ゴート戦争」の記事における「東ローマ軍の侵攻(535年6月 - 536年12月)」の解説
535年6月、ベリサリウスはアフリカを出帆してシチリアに上陸した。島は迅速に占領され、唯一抵抗したパノルムス(Panormus:現在のパレルモ)も12月に攻略された。ベリサリウスはここからイタリア渡航を準備した。東ローマ軍の成功に恐怖したテオダハドはユスティニアヌス帝の元へ使者を送り、シチリアの割譲とユスティニアヌス帝の宗主権承認を、これが受け入れられない場合には年金と爵位とを引き換えに退位をも提案している。 その間、ムンドゥスはほとんど抵抗を受けることなくダルマチアを制圧し、ダルマチアの首都サロナ(現在のスプリト)を占領した。だが、救援のための東ゴート族の大軍が到着して、ムンドゥスの息子マウリキウスは小競り合いで戦死する。息子の死に激怒したムンドゥスは東ゴート軍に向けて自軍を進めて、これを撃滅したが、その追撃中に彼自身が戦死してしまう。この結果、東ローマ軍は撤退してサロナを除くダルマチア全土は放棄され、東ゴート軍の手に帰した。勝報を受けたテオダハドは大胆になり、ユスティニアヌス帝の特使を逮捕して投獄してしまった。 平和的イタリア接収の可能性がなくなったことを受け、ユスティニアヌス帝はダルマチア奪回のため、新たにイリュリクム管区軍司令官コンスタンティアヌスを派遣し、ベリサリウスにはイタリア渡航を命じた。コンスタンティアヌスは任務を迅速に成し遂げた。東ゴート族の将軍グリパスはサロナを占領したばかりだったが、城壁は崩落しており、市民も親ローマ的であったため町を放棄して北方へ撤退した。コンスタンティアヌスはサロナを占領し城壁を再建した。7日後、東ゴート軍はイタリアへ後退し、6月までにダルマチアは再び東ローマ帝国の支配下に入った。 536年晩春、ベリサリウスは海を渡ってイタリアへと軍を進め、レギウム(Rhegium:現在のレッジョ・ディ・カラブリア)を奪取した。11月、東ローマ軍は多数の犠牲を出しながらもナポリを攻略し、略奪を行った。ベリサリウスの素早い進軍に東ゴート族は驚愕し、テオダハドの無能さに憤慨した。ナポリ失陥後、ローマにいたテオダハドは追放され、新王にウィティギスが選ばれた。テオダハドは首都ラヴェンナへの逃亡を図るが、刺客に追いつかれ暗殺された。
※この「東ローマ軍の侵攻(535年6月 - 536年12月)」の解説は、「ゴート戦争」の解説の一部です。
「東ローマ軍の侵攻(535年6月 - 536年12月)」を含む「ゴート戦争」の記事については、「ゴート戦争」の概要を参照ください。
- 東ローマ軍の侵攻のページへのリンク