東ローマ帝国軍の到着とニカイアの降伏
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「ニカイア攻囲戦」の記事における「東ローマ帝国軍の到着とニカイアの降伏」の解説
東ローマ帝国皇帝アレクシオス1世コムネノスは十字軍と連合して戦うことはせず十字軍の後方を進軍しており、ニカイア攻囲戦の最中はペレカヌム(Pelecanum)付近に陣取っていた。皇帝は陣地から軍船を陸送してアスカニウス湖に浮かばせ、十字軍のニカイア封鎖を支援しようとした。これによりニカイアは外部からの食糧の補給路となっていた湖上の水運を失うはずであった。船は、6月17日に Manuel Boutoumites の指揮下で湖に到着した。将軍タティキオス(Tatikios)も2,000人の歩兵とともにニカイアに到着した。 一方、十字軍がニカイア陥落後に略奪や虐殺をするのを恐れるアレクシオス1世は、 Boutoumites 将軍に、十字軍には極秘でニカイア市と降伏の交渉を進めよと命じた。タティキオスが十字軍と合流して城壁への直接攻撃を行う間、Boutoumites は城壁を攻める振りをして交渉を行い、あたかも戦いでニカイアを征服したように見せかけるようにとの指令だった。クルチ・アルスラーン1世も撤退前にギリシア人市民らにアレクシオス1世への降伏を勧めていた。こうして6月19日、テュルク人守備兵は Boutoumites 将軍に投降し、ニカイアには東ローマの旗が翻った。 十字軍にとって、ニカイアの降伏は寝耳に水の出来事だった。アレクシオス1世が行った極秘の交渉に対し十字軍の諸公は激怒した。ニカイアの守備を命じられたBoutoumites 将軍は、十字軍将兵の入市を制限し一度に10人以上の集団を組んでニカイアに入ることを禁じた。これにより十字軍はニカイアを占領・略奪して金銀や食糧を補給することが出来なくなった。さらにテュルク人の信頼できない将軍たちも市内から追放した(将軍らは実際、東ローマ皇帝への面会に向かう途中に案内を人質に取ろうとさえした)。市内に残っていたクルチ・アルスラーン1世の家族らはコンスタンティノープルへ連行されたが、最終的には身代金なしでクルチ・アルスラーン1世のもとへ釈放された。 アレクシオス1世は十字軍に資金、軍馬、その他の褒美を与えたが、ニカイアを自ら占領できればもっと多くのものを得られたはずだと考える十字軍将兵の怒りは収まらなかった。Boutoumites は十字軍に対し、アレクシオス1世への臣下の誓いをコンスタンティノープルでまだ示していない者は、ここで誓わない限り出発は許さないとした。タンクレードは、すでにコンスタンティノープルで誓ったといって真っ先に拒絶したが、最終的には誓いをさせられた。
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