東ローマ帝国ラヴェンナ総督領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:37 UTC 版)
「ラヴェンナ」の記事における「東ローマ帝国ラヴェンナ総督領」の解説
527年に即位した東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、ローマ帝国復興と正統教義擁護を掲げ、東ゴート支配にもキリスト教アリウス派にも反対していた。東ゴート王国の内紛による混乱に乗じたユスティニアヌス1世は、535年に将軍ベリサリウスらを派遣してイタリアに侵攻した(ゴート戦争)。540年、東ゴート王ウィティギスは降伏し、ベリサリウスはラヴェンナを占領した。ラヴェンナはイタリアにおける東ローマ帝国政府(ラヴェンナ総督府)の所在地となった。 ラヴェンナでの帝国の復活(ユスティニアヌス1世の外征でローマ帝国時代の旧領を取り戻したことを指す)も、クラッシス港の恩恵を受けた。時に町は古代後期のポンペイだといわれた。この時代を代表する遺跡は、サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(6世紀から7世紀)で、教会内には聖アポリナレスの聖遺物が置かれている。しかしたとえクラッシスがローマ時代につくられたとはいえ、ラヴェンナの成長が著しかったのは帝国の末期であった。ラヴェンナの港として、クラッシスは6世紀から7世紀のカギとなる交易の乗降口であり、イタリア・アドリア海沿岸の主要港であった。 皇帝マウリキウスはラヴェンナに総督府を置いた。これがラヴェンナ総督府で知られる。この時、『ラヴェンナの形状誌』(it、インドからアイルランドまでの地名が記された)が書かれた。 6世紀から7世紀にかけ、総督領はロンゴバルド王国とフランク王国に脅かされ、聖像破壊運動によって東西のキリスト教会は裂かれた。教皇庁とコンスタンティノープル総主教庁との競争が苛烈を極め、総督領の状況は支持されなくなっていった。 リウトプランド王時代のロンゴバルド王国が、712年にラヴェンナを占領した。しかし東ローマ帝国に市を返還させられた。751年、ロンゴバルド王アイストゥルフがラヴェンナ征服を継承し、この前後に最後のラヴェンナ総督エウティキウスが戦死した。北イタリアでの東ローマ支配は終わった。
※この「東ローマ帝国ラヴェンナ総督領」の解説は、「ラヴェンナ」の解説の一部です。
「東ローマ帝国ラヴェンナ総督領」を含む「ラヴェンナ」の記事については、「ラヴェンナ」の概要を参照ください。
- 東ローマ帝国ラヴェンナ総督領のページへのリンク