東ローマ帝国の攻勢とは? わかりやすく解説

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東ローマ帝国の攻勢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/09 06:01 UTC 版)

スヴャトスラフ1世のブルガリア侵攻」の記事における「東ローマ帝国の攻勢」の解説

970年の間に小バルダス・フォカス(英語版)の反乱鎮圧したヨハネス1世は、971年前半自身軍勢召集しアナトリアからトラキア進軍し物資攻城兵器集めながらルーシ領域進軍した。また東ローマ帝国海軍英語版)も、敵の背後軍勢上陸させたりドナウ川で敵の退路断ったりする任務帯びて出撃した。ヨハネス1世971年復活祭の週を選んで、完全に油断していたルーシ軍に奇襲をかけた。ルーシ軍の支配下にあるはずのバルカン山脈無防備であった。これは彼らがブルガリアでの反乱鎮圧追われていたからという説もあれば、A・Dストークスの言うように、アルカディオポリスの戦い後に結ばれた停戦条約満足してしまっていたからだという説もある。 ヨハネス1世自身率いる3万人から4万人東ローマ帝国軍は一挙にブルガリア進撃しさしたる抵抗もないままプレスラフまで至ったルーシ軍はこの町の市壁の外に出て抵抗した敗れ去り東ローマ軍包囲された。ルーシ貴族スヴェネーリド(英語版)b[›] のもとでルーシ族ブルガール人守備隊頑強に抵抗したが、プレスラフ4月13日遂に陥落したボリス2世やその家族もここで東ローマ帝国捕虜となり、皇帝権標とともにコンスタンティノープルへ送られた。スヴャトスラフ1世はこれに先立ち本軍率いてドロストポリを経由しドナウ川北へ引き返していた。また彼はブルガール人反乱恐れ300人のブルガリア貴族処刑しその他の多く投獄していた。その結果東ローマ帝国軍の侵攻妨げるものはなくなり各地の砦のブルガリア守備隊平和裏降伏していった。 東ローマ軍がドロストポリに近づくと、守るルーシ軍は街から外に出て会戦備え固めた。この日の戦闘長く激しいものとなったが、最終的にヨハネス1世がカタフラフト重騎兵突撃命じ勝利を手にした。ルーシ軍はまたたくま戦列乱し要塞逃げ帰ったその後のドロストポリ包囲戦英語版)は3か月にわたり続いた東ローマ軍海陸両面から包囲したのに対しルーシ軍は何度も出撃して戦った。しかし幾度にもわたる衝突は、すべて東ローマ軍勝利終わった7月後半最後凄惨な戦闘敗れた後、ルーシ守備隊降伏余儀なくされた。東ローマ帝国年代記によれば、もともと6万人いた守備隊2万2000人にまで減っていた。その後ヨハネス1世スヴャトスラフ1世直接会見して和平条約結んだルーシ軍は捕虜戦利品置いていくことを条件帰国許された。またキエフ・ルーシは、二度と東ローマ帝国領を侵さないと誓うことで、貿易携わる権利再確認された。和平成った帰路スヴャトスラフ1世ドニエプル川ペチェネグ人襲撃にあい命を落とした

※この「東ローマ帝国の攻勢」の解説は、「スヴャトスラフ1世のブルガリア侵攻」の解説の一部です。
「東ローマ帝国の攻勢」を含む「スヴャトスラフ1世のブルガリア侵攻」の記事については、「スヴャトスラフ1世のブルガリア侵攻」の概要を参照ください。

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