東ローマ帝国の攻勢
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「スヴャトスラフ1世のブルガリア侵攻」の記事における「東ローマ帝国の攻勢」の解説
970年の間に小バルダス・フォカス(英語版)の反乱を鎮圧したヨハネス1世は、971年前半に自身の軍勢を召集し、アナトリアからトラキアへ進軍して物資と攻城兵器を集めながらルーシの領域へ進軍した。また東ローマ帝国海軍(英語版)も、敵の背後に軍勢を上陸させたりドナウ川で敵の退路を断ったりする任務を帯びて出撃した。ヨハネス1世は971年の復活祭の週を選んで、完全に油断していたルーシ軍に奇襲をかけた。ルーシ軍の支配下にあるはずのバルカン山脈は無防備であった。これは彼らがブルガリアでの反乱鎮圧に追われていたからという説もあれば、A・D・ストークスの言うように、アルカディオポリスの戦い後に結ばれた停戦条約で満足してしまっていたからだという説もある。 ヨハネス1世自身が率いる3万人から4万人の東ローマ帝国軍は一挙にブルガリアを進撃し、さしたる抵抗もないままプレスラフまで至った。ルーシ軍はこの町の市壁の外に出て抵抗したが敗れ去り、東ローマ軍に包囲された。ルーシの貴族スヴェネーリド(英語版)b[›] のもとでルーシ族やブルガール人の守備隊は頑強に抵抗したが、プレスラフは4月13日に遂に陥落した。ボリス2世やその家族もここで東ローマ帝国の捕虜となり、皇帝の権標群とともにコンスタンティノープルへ送られた。スヴャトスラフ1世はこれに先立ち、本軍を率いてドロストポリを経由しドナウ川を北へ引き返していた。また彼はブルガール人の反乱を恐れ、300人のブルガリア貴族を処刑し、その他の多くを投獄していた。その結果、東ローマ帝国軍の侵攻を妨げるものはなくなり、各地の砦のブルガリア守備隊は平和裏に降伏していった。 東ローマ軍がドロストポリに近づくと、守るルーシ軍は街から外に出て会戦の備えを固めた。この日の戦闘は長く激しいものとなったが、最終的にヨハネス1世がカタフラフト重騎兵に突撃を命じ、勝利を手にした。ルーシ軍はまたたくまに戦列を乱し、要塞に逃げ帰った。その後のドロストポリ包囲戦(英語版)は3か月にわたり続いた。東ローマ軍が海陸両面から包囲したのに対し、ルーシ軍は何度も出撃して戦った。しかし幾度にもわたる衝突は、すべて東ローマ軍の勝利に終わった。7月後半の最後の凄惨な戦闘に敗れた後、ルーシ守備隊は降伏を余儀なくされた。東ローマ帝国の年代記によれば、もともと6万人いた守備隊は2万2000人にまで減っていた。その後、ヨハネス1世とスヴャトスラフ1世は直接会見して和平条約を結んだ。ルーシ軍は捕虜と戦利品を置いていくことを条件に帰国を許された。またキエフ・ルーシは、二度と東ローマ帝国領を侵さないと誓うことで、貿易に携わる権利を再確認された。和平が成った帰路、スヴャトスラフ1世はドニエプル川でペチェネグ人の襲撃にあい命を落とした。
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