東ローマ帝国の反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/02 00:24 UTC 版)
「ヤルムークの戦い」の記事における「東ローマ帝国の反撃」の解説
アラブ軍が占領したホムスは、東ローマ帝国の重要拠点であるアレッポ(現シリア)や、ヘラクレイオスが居を構えるアンティオキア(現トルコ)からも近く、危機感を抱いたヘラクレイオスは戦備を進めた。 635年、サーサーン朝の皇帝ヤズデギルド3世に娘を嫁がせて同盟を結び、東ローマ帝国とサーサーン朝でレバント方面とイラク方面から挟み撃ちにする準備を進めた。ところが、636年5月にヘラクレイオスが反撃を開始したにも関わらず、ヤズデギルド3世は国内が疲弊していたために歩調を合わせることができず、決定的な機会を逃した。ヤズデギルド3世はヤルムークの戦いの3カ月後、カーディシーヤの戦いで正統カリフ軍に大敗してペルシア西部を失うことになる。 東ローマ軍は635年5月にアンティオキアに大軍を終結させた。東ローマ兵、スラヴ人、フランク人、グルジア人、アルメニア人、アラブ人キリスト教徒からなるこの軍は五つの軍団に分けられ、ヘラクレイオスの弟テオドロス・トリトゥリオス(英語版)が総司令官に任命された。実際に全軍の指揮をとったのは、アルメニアの将軍でホムス防衛司令官だったヴァハンで、スラヴ人王子のブッキナートルがスラヴ兵を、ガッサーン王ジャバラ・イブン・アル・アイハムがキリスト教徒アラブ兵を率いた。残りのヨーロッパ兵はグレゴリウスらの指揮下に入った。ヘラクレイオスはアンティオキアから全軍を監督した。東ローマ側の史料では、サーサーン朝の宿将シャフルバラーズの息子のニケタスも東ローマ軍に加わったという。 正統カリフ勢力のアラブ軍は、パレスチナのアムル・イブン・アル=アース、ヨルダンのシュラフビール(英語版)、ダマスカスのヤジード・イブン・アビ・スフヤーン(英語版)、ホムスのアブー・ウバイダの4部隊に分かれていた。アラブ軍が分散していることを知ったヘラクレイオスは、敵が兵力を集中する前に各個撃破しようとした。カエサリアを包囲中のヤジード軍を釘付けにするために、籠城中のヘラクレイオスの息子コンスタンティノス3世のもとに増援を送り、東ローマ軍は636年6月にシリア北部を出撃した。東ローマ軍の計画は、以下のようなものだった。 ガッサーン王率いる軽装のキリスト教徒アラブ兵はアレッポからホムスに直進し、アラブ軍主力に正面から当たる グレゴリウス率いるヨーロッパ兵はメソポタミアを回って北東からホムスに向かい、アラブ軍の右側面を突く それ以外のヨーロッパ兵は地中海東岸とアレッポの間に街道を南下し、ホムスに西から進撃してアラブ軍の左側面を突く ブッキナートル率いるスラヴ軍は海岸沿いを進撃してベイルートを占領し、守りの薄いダマスカスを西から攻撃してホムスのアラブ軍主力を孤立させる ヴァハンのアルメニア軍は遊軍としてハマー経由でホムスに進軍する
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