正統カリフとは? わかりやすく解説

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せいとう‐カリフ【正統カリフ】


正統カリフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/16 16:06 UTC 版)

正統カリフ
الخلفاء الراشدون




632年 - 661年

西暦654年の正統カリフ時代の最大版図
公用語 アラビア語
宗教 イスラム教
首都 メディナ632年 - 656年
クーファ656年 - 661年
カリフ
632年 - 634年 アブー・バクル
634年 - 644年 ウマル
644年 - 656年 ウスマーン
656年 - 661年 アリー
面積
655年 6,400,000km²
9,400,000km²
人口
7世紀 21,400,000人
変遷
ムハンマド死去 632年6月8日
マグリブ征服 7世紀 - 8世紀
アラブ・東ローマ戦争 634年
サーサーン朝征服 651年
ウマイヤ朝の成立 661年
通貨 ディナール
ファルス英語版
ディルハム
現在 サウジアラビア
カタール
バーレーン
アラブ首長国連邦
オマーン
イエメン
ヨルダン
イスラエル
パレスチナ
レバノン
トルコ
アルメニア
ジョージア
アゼルバイジャン
シリア
イラク
クウェート
イラン
アフガニスタン
トルクメニスタン
 エジプト
リビア

正統カリフ(せいとうカリフ、アラビア語: الخلفاء الراشدون, ラテン文字転写: al-Khulafā’u r-Rāshidūnアラビア語で「正しく導かれた代理人たち」の意)は、イスラム教イスラム帝国の初期(アラビア語: الخلافة الراشدية, ラテン文字転写: al-khilāfat ar-Rāshidīyah - en)の時代においてイスラム共同体ウンマ)を率いたカリフのことを指すスンナ派の用語である。正統カリフ4代のうちアブー・バクルを除く3代の正統カリフが暗殺されてこの世を去っている[1][2][3][4]

歴史

アブー=バクル

632年使徒ムハンマドが死去した後、アブー・バクルがイスラム共同体の長に選出された。 リッダ戦争英語版(632年 - 633年)。ドゥーマト・アッ=ジャンダルの戦い英語版を指導し、634年に病没する。以降は、同様にイスラム共同体の合議によって選出され継承を行った。

ウマル

634年にカリフに選ばれ、636年ヤルムークの戦いカーディシーヤの戦い642年ニハーヴァンドの戦いを指導する。644年に刺されて、息を引き取る前に後継者候補と選挙方法を残した。

ウスマーン

644年にカリフに選ばれ、サーサーン朝を滅亡させるなど、遠征を終結した。海軍を整え、655年マストの戦い英語版で、東地中海の制海権を確保した。クルアーンの制式版を編纂し、版ごとの異同をなくした。656年政策に不平を持つムスリム兵の謀叛により殺害英語版される。

アリー

656年ウスマーンの跡を継ぎカリフになる。ムハンマドの妻アーイシャとの確執とムアーウィヤとの対立により内乱に直面する。

ムアーウィヤとの講和によりハワーリジュ派が起こる。対立カリフを名乗ったムアーウィヤとの戦いに追われる中、661年にハワーリジュ派の刺客によって殺害英語版される。

ウマイヤ朝の成立

661年にアリーがハワーリジュ派に暗殺された後、ウマイヤ家ムアーウィヤが実力でカリフ位に就いてウマイヤ朝を興した。ムアーウィヤはカリフ位世襲の道を開いたため、正統カリフの時代は終焉した。

歴代カリフ

  1. アブー・バクル632年 - 634年
  2. ウマル634年 - 644年
  3. ウスマーン644年 - 656年
  4. アリー656年 - 661年)

関連項目

参照

  1. ^ Azyumardi Azra (2006). Indonesia, Islam, and Democracy: Dynamics in a Global Context. Equinox Publishing (London). p. 9. ISBN 9789799988812. https://archive.org/details/indonesiaislamde0000azra 
  2. ^ C. T. R. Hewer; Allan Anderson (2006). Understanding Islam: The First Ten Steps (illustrated ed.). Hymns Ancient and Modern Ltd. p. 37. ISBN 9780334040323 
  3. ^ Anheier, Helmut K.; Juergensmeyer, Mark, eds (2012). Encyclopedia of Global Studies. Sage Publications. p. 151. ISBN 9781412994224 
  4. ^ Claire Alkouatli (2007). Islam (illustrated, annotated ed.). Marshall Cavendish. p. 44. ISBN 9780761421207. https://archive.org/details/islam0000alko 

正統カリフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 11:02 UTC 版)

イラクの歴史」の記事における「正統カリフ」の解説

詳細は「正統カリフ」を参照 ホスロー2世東ローマ帝国敗戦した後、サーサーン朝消耗し国内混乱したアラブ接すイラク南部国境線守備力下がった現在のイラク南部には湿地帯広がっているが、この混乱期荒廃したと言われている。 610年頃、預言者ムハンマドは現サウジアラビアマッカメッカ郊外イスラム教興したムハンマド作ったイスラム共同体は正統カリフに引き継がれアラブ人中心とするイスラム帝国誕生し急速に拡大した当時物質的に貧しかったアラブ人軍隊十分な装身具得られない中、その時代の世界帝国一つと呼ぶに相応しサーサーン朝帝国対峙し、戦争激しいものとなった633年ヒーラ戦い英語版)で正統カリフのイスラム軍がサーサーン朝ラフム朝(英語版)の連合軍破った636年頃のカーディスィーヤの戦いイスラム軍がペルシア主力軍隊破りそのままペルシア帝国首都クテシフォン奪い取った638年には、イスラム軍はクバルバラ地方(現イラク)をほとんど征服した642年ニハーヴァンドの戦いサーサーン軍は敗れ651年皇帝ヤズデギルド3世暗殺されサーサーン朝名実ともに滅びた656年に第4代正統カリフとなったアリー・イブン=アビー=ターリブのとき、首都イラククーファ移したが、内部対立によってアリー661年暗殺された。

※この「正統カリフ」の解説は、「イラクの歴史」の解説の一部です。
「正統カリフ」を含む「イラクの歴史」の記事については、「イラクの歴史」の概要を参照ください。

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