アラブ・東ローマ戦争
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アラブ・東ローマ戦争(アラブ・ひがしローマせんそう)とは、アラブ人のイスラム王朝(ウマイヤ朝、ファーティマ朝)と東ローマ帝国との間に行われた戦争のことである。
シリアを巡る戦い
アラビア半島を統一したムハンマドは周辺民族に通商の使者を送っていたが、キリスト教国のガッサーン朝[1]はイスラムの使者を殺害してしまった。ムハンマドはガッサーン朝に報復するために娘婿のザイドを主将とする軍を送り込んだ。ガッサーン朝とその同盟国であった東ローマ帝国はムウタの戦いでイスラム軍を壊滅させた。東ローマはサーサーン朝ペルシア帝国との戦いで疲弊しており、イスラム側も内部に反抗する部族がいたため、双方が望んで和平を結ぶことになったが、イスラム側は東ローマへの怨恨を忘れなかった。
634年、正統カリフのアブー・バクルが東ローマ帝国へ宣戦布告、シリアに出兵した。イスラム軍はボスラ、アジュナーダインで東ローマ軍に勝利し、さらにエルサレム、635年にダマスカスを占領した。東ローマ皇帝ヘラクレイオスはシリア奪還しようと636年に大軍を引き連れてアンティオキアに入城し、弟のテオドロスとアルメニア系の将軍ヴァーハーンに軍勢をたくし、シリアの諸都市を奪還させていった。イスラム側は東ローマ帝国を疲弊させるため、あえて都市を放棄しジャーヒヤまで後退していた。
東ローマ軍はイスラム軍を殲滅するため、ジャーヒヤへ侵攻を開始したがヤルムーク川で待ち受けていたイスラム軍に大敗し(ヤルムークの戦い)シリア軍団を壊滅させられてしまった。イスラム軍は兵力が激減した東ローマ軍を攻撃し、翌年の637年にはエルサレム、アレッポ、アンティオキアをも占領し、シリアを完全に制覇した。
主な戦い
脚注
関連項目
アラブ・東ローマ戦争
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「ヤルムークの戦い」の記事における「アラブ・東ローマ戦争」の解説
この時代、南のアラビアでは政治情勢が急速に変化した。預言者ムハンマドのイスラームの教えが広まり、630年までにアラビアを統一した。632年にムハンマドが死ぬとアブー・バクルが第2第正統カリフに選出されるが、多くのアラブの部族が叛旗を翻しリッダ戦争(英語版)が起きた。アブー・バクルはメディナのカリフの権威の下で何とかイスラーム共同体(ウンマ)の分裂を防いだ。 内乱を鎮めたアブー・バクルは対外征服事業を始め、イラクに兵を進める。アブー・バクル麾下の勇将ハーリド・イブン・アル=ワリード率いる遠征軍はサーサーン朝軍を相手に連戦連勝で、イラクを制圧した。アブー・バクルはサーサーン朝と交戦しつつ、東ローマ帝国が支配するシリア侵攻の準備も始めるが(アラブ・東ローマ戦争)、東ローマ軍が反撃に出るとムスリムのシリア方面軍はこれに対応しきれず本国に増援を求め、ハーリドがイラクから派遣されることになった。634年11月、アジュナーダインの戦い(英語版)で東ローマ軍は敗れてダマスカスが陥落した。 アブー・バクルが634年に死ぬと後継者のウマルもシリア侵攻を続けた。ウマルと折り合いの悪かったハーリドは更迭され、アブー・ウバイダが後任の指揮官となった。パレスチナ南部を平定し南北に走る隊商の交易路沿いを北に攻め上がったムスリム軍は、ティベリア、バールベックを開城させ、635年初頭にホムスを占領した。
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