アラブによる支配
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「アルメニアの歴史」の記事における「アラブによる支配」の解説
詳細は「アルメニア首長国(ロシア語版)」を参照 その一方で、同時期のアラビア半島ではムハンマドがイスラーム教を興し、その支配圏を広げようとしていた。633年にはアラブの軍勢はペルシアにも侵入を果たし、やがてサーサーン朝を滅ぼしてペルシア征服を成し遂げた。640年にはアルメニアにも最初の襲撃が行われたが、即座に征服されたペルシアとは異なり、ウマイヤ朝が完全にアルメニア征服(英語版)を終えるには、その後半世紀を要した。 652年にアルメニア公テオドル・ルシュトゥニ(英語版)はシリア総督ムアーウィヤと和睦し、さらに東ローマの縮小によって、387年以来初めてアルメニアの東西分割状態は解消された。アルメニアには広い自治権と信教の自由が与えられ、農業と交易が大きく発展した。ジズヤやハラージュを支払えばアラブ人は異教徒に寛容であったため、アルメニア人はイスラーム世界の側でも、商人として活躍する基盤を形成した。このころのアルメニア知事には、アラブを支持する者もいれば東ローマを支持する者もおり、アルメニアは実際には2国の両属状態となっていた。アラブ・東ローマ戦争中の693年には、ウマイヤ朝によるアルメニア支配が確立されるが、その後も長きに渡って東ローマはアルメニアに影響力を持ち続けた。 やがて750年のアッバース革命によってウマイヤ朝が滅びると、続くアッバース朝はイスラーム帝国の理念に従い、ムスリムであれば非アラブ人にも対等な取り扱いを保障するようになった。他方、国家財政の必要から税はウマイヤ朝時代に増して重くなり、親東ローマ派のマミコニアン家と親ウマイヤ派のアルツルニ家(フランス語版)は、これに乗じて774年にアルメニア人による反乱を煽動した。しかし翌年にアルメニア軍は大敗し、諸侯の内で反乱に加わらなかったバグラトゥニ家(ロシア語版)だけが、アッバース朝の信頼のもと、新たなアルメニアの支配層としての地位を固めていくこととなった。そして806年、アッバース朝はバグラトゥニ家のアショト4世(英語版)をアルメニア公として統治者に任命した。
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