アラブの侵略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 14:49 UTC 版)
フーゼスターンへのアラブの侵略は639年に始まった。バスラ総督アブー・ムーサー・アル=アシュアリーの命によって派遣された軍は「ホルモザン」をアフヴァーズから追い落とし、スーサは2日間で陥落、ホルモザンはシューシュタルに退いた。ここで18か月にわたる攻城戦に耐えるが、642年に落城。「フーゼスターン年代記」によればカタル出身の者が攻城軍に内通し、戦利品三分の一と引き替えに穴を掘ったという。バスラ軍はネストリウス派の聖職者とその弟子たちを追放したが、ホルモザンはそのまま残した。 これに続きジュンディーシャープールの征服およびティグリス河岸地域の占領が行われ、ニハーヴァンドの戦いにおいてフーゼスターンは最終的にイスラーム勢力下に入ることになった。 アラブ侵攻軍のイラン南部への定住に続き、植民がはじまった。私有地を与えられてのアラブの移住などがそれである。イラン他地域と同様にアラブの侵略によってフーゼスターンはウマイヤ朝、アッバース朝の占領下におかれた。ヤアクーブ・イブン・ライース・アッ=サッファールが東方から独立の旗をひるがえし、フーゼスターンを奪回するまでこの占領は続く。サッファール朝は短命に終わったが、イラン諸王朝はこの地域をイランの重要な一部として統治し続けたのである。 16世紀後半、クウェートからバヌー・カアブ族(英語版)が入ってきた。以降、イラク南部からのアラブ部族の移動があり、結果としてフーゼスターンのアラブ化が進行した。 Encyclopedia Iranicaでボスワースの記事によれば「サファヴィー朝、ガージャール朝の時代にはアラベスターンと呼ばれ、ガージャール朝では軍政下におかれた」。 1800年代中葉、イギリスはフーゼスターンを征服しようとして戦争を仕掛けたが、これは失敗した。この失態にもかかわらず、英国は外部のアラブ部族によるイラン侵略を支援し、フーゼスターンへのイランの影響を排除しようとの試みを続けた。これらの部族のうち、クウェートに起源をもつシェイフ・ハズアルの率いる最後の部族は、1925年にレザー・シャーによって打ち破られた。以降80年間、イラン・イラク戦争の時期を除いて、フーゼスターン州は発展・繁栄してイランの一地方として、経済的・戦略的重要性を保ち続けた。 フーゼスターンは古代において学問的・文化的中心地としての卓越した存在であった。、ジュンディーシャープールへはエジプト、ギリシア、インド、ローマから医学者が集まった。これはシャープール1世(241年 - 271年)の命によって設置され、シャープール2世の再建を経て、アヌーシールヴァーンの時代にさらに拡張された。
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