アラブの叛乱とロレンス大佐のゲリラ戦とは? わかりやすく解説

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アラブの叛乱とロレンス大佐のゲリラ戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 16:28 UTC 版)

アラブ反乱」の記事における「アラブの叛乱とロレンス大佐のゲリラ戦」の解説

第一次世界大戦でのオスマン帝国は、ドイツ帝国との同盟のもとで中央同盟国加わり中東戦線参戦した当時ダマスカスベイルートにいたアラブ民族主義活動家多く逮捕され拷問受けた1915年には「統一と進歩委員会」の指導者一人であったジェマル・パシャベイルートなどで民族主義者知識人拷問虐殺しアラブ人知識人オスマン帝国から離反していった。 ドイツオスマン帝国組んでスエズ運河を脅かすとともにカリフであるオスマン皇帝権威イスラム教徒全体連合国に対して蜂起させ、英領インド帝国揺るがそうという計略立てていたが、イギリス逆にアラブ人蜂起させてオスマン帝国南部揺るがせようという計略立てた1915年暮れごろからこの計画立案していたのはオリエント学者で大戦中はカイロ英軍軍事情報部にいたデイヴィッド・ホガース(英語版)で、彼の周りにはトーマス・エドワード・ロレンスガートルード・ベル、ハリー・シンジョン・フィルビー、マーク・サイクス(英語版)(後にサイクス・ピコ協定関与する)などのアラブ中東専門家集まり1916年1月7日外務省カイロ情報局の下に「アラブ局(英語版)」が新設されアラブ反乱指揮した。彼らが指導者として目を付けたのは、メッカ太守フサイン・イブン・アリーであり、名門ハーシム家当主としてオスマン皇帝権威対抗できるものと考えた当時オスマン帝国によりヒジャーズ地方支配するアミールシャリーフ)に任じられメッカにいたハーシム家フサイン・イブン・アリーアラブ民族主義者でありオスマン帝国による弾圧抑圧対し不満を持っていた。フサインオスマン政府戦後に彼を廃位ようとしているという証拠つかんだため、1915年頃からイギリス外交官で駐エジプト高等弁務官ヘンリー・マクマホンとの書簡交わしていた。この書簡は後にフサイン=マクマホン協定呼ばれるが、この書簡フセインは、三国協商の側について協力することにより、エジプトからペルシアまでの全域(ただしクウェートアデンシリア海岸にあるイギリス帝国権益を除く)を包含するアラブ帝国建国できると確信したアラブ局の計画に対しては、インドから中東までを管轄範囲とするインド省が、活動範囲重複インドのイスラム教徒を刺激する恐れなどから反対したが、1916年3月9日には内閣によりフサイン・イブン・アリー支援して蜂起させるというアラブ局の計画承認され兵器資金供給された。 フセインオスマン帝国との戦いのため1916年6月8日頃に(正確な日時不詳連合国側イギリスおよびフランスとの同盟結んだ1916年6月10日ヒジャーズ地方太守フサイン・イブン・アリーを王とするヒジャーズ王国としてオスマン帝国から独立宣言したフサイン5万人の軍勢組織していたが、当時ライフル持っていたのはそのうち1万人にも満たなかった。 この日、ジッダ港に3500人のアラブ兵が突入しイギリス海軍艦船飛行艇海上から支援したフランス海軍イギリス海軍第一次世界大戦早い段階紅海からオスマン軍砲艦一掃しており、紅海制海権を握る英仏海軍アラブ反乱軍を支援できた。激戦の後、6月16日にはジッダオスマン兵は降伏したアラブ反乱軍は1916年9月末までにヤンブー、キンフィダなどメディナより海側の紅海海岸沿いの諸都市占領し6000人のオスマン兵を捕虜とした。しかしなお1万5千人上の武装整ったオスマン軍部隊ヒジャーズにはいた。 イギリス軍アラブ諸部族協力するために1916年10月に「アラビアのロレンス」として知られるトーマス・エドワード・ロレンス派遣したロレンスオックスフォード大学卒で、アラビア語堪能中東砂漠研究していた。ロレンスアラブ軍に参加し12月ヤンブー港をオスマン軍が再び攻撃した際には英国海軍応援取り付けたロレンスアラブ指導者ら(フサイン三男ファイサル・イブン・フサイン、および次男アブドゥッラー・イブン・フサインら)の信頼得て、彼らの戦闘イギリスの対オスマン帝国戦略沿うよう調整したロレンスヒジャーズ鉄道終点メディナ拠点構え強大なオスマン軍と戦うのではなくヒジャーズ鉄道各地ゲリラ戦により破壊しオスマン軍ヒジャーズ鉄道全線護衛修理多くオスマン軍部隊増援強いられるようにした。これはイギリス狙いでもあった。 ヒジャーズ鉄道への攻撃強化のために、まずメディナタブーク中間にある紅海北部海岸の町アル・ワジュ(Al Wajh)を拠点として確保する計画立てられた。1917年1月3日ファイサルは5100騎のラクダ騎兵5300人の歩兵クルップ社製の山砲4基、機関銃10丁、輸送用ラクダ380軍勢紅海沿いに北上開始しイギリス海軍海上から物資補給などで支援した。ワジュではオスマン軍800人ほどの部隊が南からやってくる軍勢に対して準備行っていたが、1月23日400人のアラブ兵と200人のイギリス海軍水兵上陸敢行しワジュを北から攻撃し36時間後にはワジュは降伏したオスマン軍ヒジャーズ中心であるメッカへの侵攻あきらめメディナ鉄道沿線拠点死守選んだ補給補強結果アラブ軍は1万7000人の兵員2万8000丁のライフルが行き渡るなど武装充実したフサイン・イブン・アリー率い部隊メディナ脅かし、アブドゥッラー・イブン・フサインの部隊はワジ・アイスを拠点オスマン軍通信補給妨害したファイサル・イブン・フサインはワジュに拠点を置きヒジャーズ鉄道襲ったアラブ人ラクダ騎兵らで組織する急襲部隊半径1000マイル1600キロメートル)もの広い範囲を、必要な食料積み、約100マイル(160キロメートル離れて点在する井戸補給しながら神出鬼没行動した1917年7月ロレンスアラブ人非正規軍と、ベドウィンのホウェイタット族(Howeitat)の指導者アウダ・イブ・ターイー(アウダ・アブー・ターイー、Auda ibu Tayi, Auda Abu Tayi)指揮下の部隊それまでオスマン帝国の下で戦っていた)との共同作戦組織しアカバ湾奥の港町アカバ攻撃したアカバアラブ反乱軍の補給港となりうるだけでなく、イギリス側にとってはシリアパレスチナ攻撃していたイギリス軍エジプト遠征軍の補給港にもなりうるため重要であった。しかしこの時点ではオスマン帝国紅海沿岸唯一守っていた港町であり、イギリス軍エジプト遠征軍のパレスチナ攻勢に対して側面からの攻撃仕掛け恐れのある脅威であったロレンスアウダ40名ほどの手勢で1917年5月9日本拠のワジュを出てシリアのホウェイタット族のラクダ乗り募集しながらネフド砂漠横断してアカバ向かった1917年7月6日、陸からの攻撃アラブ軍はアカバ陥落させた。ロレンススエズまでを走りアカバ2500人のアラブ兵や700人のオスマン軍捕虜のための食料補給求めた。 その年の後半アラブ反乱軍の戦士エジプト遠征軍のエドモンド・アレンビー将軍によるガザベエルシェバ防衛冬季攻撃ベエルシェバ戦い)に協力してオスマン帝国軍対す攻撃行った。アレンビーはこの戦い勝利し1917年クリスマス前にエルサレム陥落させることに成功する反乱初期フサイン反乱軍ベドウィンやその他砂漠遊牧民多数占めており、連繋緩く大義よりもそれぞれの属す部族への忠誠勝っていた。フサイン三男ファイサルオスマン帝国軍にいるアラブ人部隊説得し叛乱させ、自らの大義合流させるという希望持っていた。しかしオスマン帝国アラブ人部隊のほとんどをバルカン半島などの前線へ送り出したため、アラブ反乱最後までの間、反乱軍加わったのは一握り砂漠部族のみであった

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