アラブの叛乱とロレンス大佐のゲリラ戦
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「アラブ反乱」の記事における「アラブの叛乱とロレンス大佐のゲリラ戦」の解説
第一次世界大戦でのオスマン帝国は、ドイツ帝国との同盟のもとで中央同盟国に加わり中東戦線に参戦した。当時ダマスカスやベイルートにいたアラブ民族主義活動家の多くは逮捕され拷問を受けた。1915年には「統一と進歩委員会」の指導者の一人であったジェマル・パシャがベイルートなどで民族主義者や知識人を拷問・虐殺し、アラブ人知識人はオスマン帝国から離反していった。 ドイツはオスマン帝国と組んでスエズ運河を脅かすとともに、カリフであるオスマン皇帝の権威でイスラム教徒全体を連合国に対して蜂起させ、英領インド帝国を揺るがそうという計略を立てていたが、イギリスは逆にアラブ人を蜂起させてオスマン帝国の南部を揺るがせようという計略を立てた。1915年暮れごろからこの計画を立案していたのはオリエント学者で大戦中はカイロの英軍軍事情報部にいたデイヴィッド・ホガース(英語版)で、彼の周りにはトーマス・エドワード・ロレンスやガートルード・ベル、ハリー・シンジョン・フィルビー、マーク・サイクス(英語版)(後にサイクス・ピコ協定に関与する)などのアラブ・中東専門家が集まり、1916年1月7日に外務省カイロ情報局の下に「アラブ局(英語版)」が新設されてアラブ反乱を指揮した。彼らが指導者として目を付けたのは、メッカの太守フサイン・イブン・アリーであり、名門ハーシム家の当主としてオスマン皇帝の権威に対抗できるものと考えた。 当時、オスマン帝国によりヒジャーズ地方を支配するアミール(シャリーフ)に任じられメッカにいたハーシム家のフサイン・イブン・アリーもアラブ民族主義者でありオスマン帝国による弾圧や抑圧に対し不満を持っていた。フサインはオスマン政府が戦後に彼を廃位しようとしているという証拠をつかんだため、1915年頃からイギリスの外交官で駐エジプト高等弁務官のヘンリー・マクマホンとの書簡を交わしていた。この書簡は後にフサイン=マクマホン協定と呼ばれるが、この書簡でフセインは、三国協商の側について協力することにより、エジプトからペルシアまでの全域(ただしクウェート、アデン、シリア海岸にあるイギリス帝国の権益を除く)を包含するアラブ帝国を建国できると確信した。 アラブ局の計画に対しては、インドから中東までを管轄範囲とするインド省が、活動範囲の重複やインドのイスラム教徒を刺激する恐れなどから反対したが、1916年3月9日には内閣によりフサイン・イブン・アリーを支援して蜂起させるというアラブ局の計画が承認され、兵器や資金が供給された。 フセインはオスマン帝国との戦いのため1916年6月8日頃に(正確な日時は不詳)連合国側のイギリスおよびフランスとの同盟を結んだ。1916年6月10日、ヒジャーズ地方は太守フサイン・イブン・アリーを王とするヒジャーズ王国としてオスマン帝国から独立を宣言した。フサインは5万人の軍勢を組織していたが、当時ライフルを持っていたのはそのうちの1万人にも満たなかった。 この日、ジッダ港に3500人のアラブ兵が突入し、イギリス海軍の艦船や飛行艇も海上から支援した。フランス海軍とイギリス海軍は第一次世界大戦の早い段階で紅海からオスマン軍の砲艦を一掃しており、紅海の制海権を握る英仏海軍がアラブ反乱軍を支援できた。激戦の後、6月16日にはジッダのオスマン兵は降伏した。アラブ反乱軍は1916年9月末までにヤンブー、キンフィダなどメディナより海側の紅海海岸沿いの諸都市を占領し6000人のオスマン兵を捕虜とした。しかしなお1万5千人以上の武装の整ったオスマン軍部隊がヒジャーズにはいた。 イギリス軍はアラブ諸部族に協力するために1916年10月に「アラビアのロレンス」として知られるトーマス・エドワード・ロレンスを派遣した。ロレンスはオックスフォード大学卒で、アラビア語に堪能で中東の砂漠を研究していた。ロレンスはアラブ軍に参加し、12月にヤンブー港をオスマン軍が再び攻撃した際には英国海軍の応援を取り付けた。 ロレンスはアラブの指導者ら(フサインの三男ファイサル・イブン・フサイン、および次男アブドゥッラー・イブン・フサインら)の信頼を得て、彼らの戦闘をイギリスの対オスマン帝国戦略に沿うよう調整した。ロレンスはヒジャーズ鉄道終点のメディナに拠点を構える強大なオスマン軍と戦うのではなく、ヒジャーズ鉄道を各地でゲリラ戦により破壊し、オスマン軍がヒジャーズ鉄道全線の護衛と修理に多くのオスマン軍部隊の増援を強いられるようにした。これはイギリスの狙いでもあった。 ヒジャーズ鉄道への攻撃強化のために、まずメディナとタブークの中間にある紅海北部の海岸の町アル・ワジュ(Al Wajh)を拠点として確保する計画が立てられた。1917年1月3日、ファイサルは5100騎のラクダ騎兵、5300人の歩兵、クルップ社製の山砲4基、機関銃10丁、輸送用のラクダ380の軍勢で紅海沿いに北上を開始し、イギリス海軍も海上から物資補給などで支援した。ワジュではオスマン軍の800人ほどの部隊が南からやってくる軍勢に対して準備を行っていたが、1月23日、400人のアラブ兵と200人のイギリス海軍水兵が上陸を敢行しワジュを北から攻撃し36時間後にはワジュは降伏した。オスマン軍はヒジャーズの中心であるメッカへの侵攻をあきらめ、メディナと鉄道沿線の拠点の死守を選んだ。 補給や補強の結果、アラブ軍は1万7000人の兵員に2万8000丁のライフルが行き渡るなど武装が充実した。フサイン・イブン・アリーの率いる部隊はメディナを脅かし、アブドゥッラー・イブン・フサインの部隊はワジ・アイスを拠点にオスマン軍の通信や補給を妨害した。ファイサル・イブン・フサインはワジュに拠点を置きヒジャーズ鉄道を襲った。アラブ人のラクダ騎兵らで組織する急襲部隊は半径1000マイル(1600キロメートル)もの広い範囲を、必要な食料を積み、約100マイル(160キロメートル)離れて点在する井戸で水を補給しながら神出鬼没に行動した。 1917年7月、ロレンスはアラブ人の非正規軍と、ベドウィンのホウェイタット族(Howeitat)の指導者アウダ・イブ・ターイー(アウダ・アブー・ターイー、Auda ibu Tayi, Auda Abu Tayi)指揮下の部隊(それまではオスマン帝国の下で戦っていた)との共同作戦を組織し、アカバ湾奥の港町アカバを攻撃した。アカバはアラブ反乱軍の補給港となりうるだけでなく、イギリス側にとってはシリアとパレスチナを攻撃していたイギリス軍エジプト遠征軍の補給港にもなりうるため重要であった。しかしこの時点ではオスマン帝国が紅海沿岸で唯一守っていた港町であり、イギリス軍エジプト遠征軍のパレスチナ攻勢に対して側面からの攻撃を仕掛ける恐れのある脅威であった。ロレンスとアウダは40名ほどの手勢で1917年5月9日に本拠のワジュを出て、シリアのホウェイタット族のラクダ乗りを募集しながらネフド砂漠を横断してアカバへ向かった。1917年7月6日、陸からの攻撃でアラブ軍はアカバを陥落させた。ロレンスはスエズまでを走り、アカバの2500人のアラブ兵や700人のオスマン軍捕虜のための食料補給を求めた。 その年の後半、アラブ反乱軍の戦士はエジプト遠征軍のエドモンド・アレンビー将軍によるガザ=ベエルシェバ防衛線冬季攻撃(ベエルシェバの戦い)に協力してオスマン帝国軍に対する攻撃を行った。アレンビーはこの戦いに勝利し、1917年のクリスマス前にエルサレムを陥落させることに成功する。 反乱の初期、フサインの反乱軍はベドウィンやその他砂漠の遊牧民が多数を占めており、連繋は緩く、大義よりもそれぞれの属する部族への忠誠が勝っていた。フサインの三男ファイサルはオスマン帝国軍にいるアラブ人部隊を説得し叛乱させ、自らの大義に合流させるという希望を持っていた。しかしオスマン帝国はアラブ人部隊のほとんどをバルカン半島などの前線へと送り出したため、アラブ反乱の最後までの間、反乱軍に加わったのは一握りの砂漠の部族のみであった。
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