アラブの征服とビザンツ帝国による再征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:50 UTC 版)
「クレタ島の歴史」の記事における「アラブの征服とビザンツ帝国による再征服」の解説
詳細は「イスラーム期のクレタ」および「ビザンツ帝国領クレタ」を参照 7世紀に入ると急速に勃興したイスラーム教を奉ずるアラブ人たちは東地中海にも勢力拡大を開始した。クレタ島は655年にアラブ人の艦隊に攻撃されて以降、その脅威に晒されることとなった。初期の攻撃は単なる襲撃に留まったが、9世紀にはクレタ島は完全に征服されることになる。事の発端はイベリア半島のアンダルスで818年3月発生した後ウマイヤ朝のアミール(太守)アル=ハカム1世(在位:796年-822年)に対する反乱であったとされる。この反乱の発端となったラバトの民衆は追放され、紆余曲折を経てモロッコ(イドリース朝)のフェズに定着したが、別の一団は海賊となって流転し、820年代にビザンツ支配下のクレタ島を占領してそこに独自の政権を打ち立てた(イスラーム期のクレタを参照)。 アラブ人達はクノッソスの近郊にハンダクス(カンダクス、Χάνδαξ、ラテン文字転写:Chandax、الخَنْدَق、掘割り、砦の意。現在のイラクリオン)と呼ばれる拠点を築いた。これはその後、クレタ島の中心都市として発達していき、その名前に由来するカンディアは近代までクレタ島の別称としても使用された。クレタ島はアミールの称号を持つ君主によって代々支配され、形式的にはアッバース朝などより強大な君主の宗主権を認めていたが、事実上独立した勢力となった。アラブ人達は島の農業を発達させ、恐らくは経済的な繁栄を享受したが、その具体像はほとんど不明である。当時の建造物は現代に全く残されておらず、学問がどの程度栄えたのかも一切知る事はできない。 エーゲ海沿岸を支配するビザンツ帝国にとって重大だったことは、アラブの征服以降、クレタ島が再び東地中海における海賊の一大拠点となったことであった。海賊の脅威に晒されたビザンツ帝国はテマ・アナトリコイのストラテゴス(strategos)、フォテイノス(英語版)の指揮で行われた826年の遠征以来、複数回にわたって島の奪還を目指して遠征を行ったが悉く失敗に終わった。最終的に961年にニケフォロス・フォカスが率いる遠征軍によってようやく島は奪還された。 島の再征服以降、ビザンツ帝国は島のモスクを閉鎖し、ムスリムを奴隷とした。そして再キリスト教化を目指して聖ニコン(英語版)らによる伝道が行われ、また遠征軍として参加したギリシア人とアルメニア人、そして恐らくはスラヴ人の植民が行われた。アラブ人が建設したハンダクス(カンディア)の街は良港であったため、再征服後にはビザンツ帝国のクレタ支配の拠点として位置付けられ、総督府と府主教座が置かれた。以降のクレタ島はビザンツ帝国にとってイタリア、アフリカ方面へにらみを利かせる海洋戦略上の重要地点となった。 11世紀末にビザンツ帝国に成立したコムネノス朝(1081年-1185年)では、属州行政体制として皇族の一員でドゥークス(公)やカテパノと言った官職を帯びて地方行政のトップの座にあるコムネノス一門(門閥貴族)、コムネノス一門に私的に仕え実務を担当した首都出身の文官貴族層である従者・家人、そして在地名望家たち(アルコン、アルコンテス)という3層の支配構造が確立されていったという理解が一般的である。クレタ島においても同様の構造が形成され、島の支配層としてコンスタンティノープルから継続的にドゥークス、カテパノが派遣されている。12世紀のクレタ島の支配者として名前が確認できる家門のうち、コントステファノス家、ストロボロマノス家はコムネノス一門であり、ドゥーカス家もコムネノス一門である可能性が高い。とりわけコントステファノス家はコムネノス朝時代にビザンツ海軍(英語版)の長官を輩出した家門であり、このことが海軍基地として重要であったクレタ島と同家が結びついた理由であろう。しかし、ビザンツ帝国の他の地方と異なり、ビザンツ帝国中央のクレタ島に関する関心は主として海上交通の要路という点にありハンダクス周辺の平野部以外の内陸部直接支配にはあまり注意が払われなかった。このため、コムネノス一門による私領化と中央政府による財政的圧迫に対して各地でコムネノス朝に対する不満が高まっていったのに対し、直接的な支配が熱心に行われなかったクレタ島では逆に、コムネノス一門による支配が大きな逆境を迎えることもなかった。
※この「アラブの征服とビザンツ帝国による再征服」の解説は、「クレタ島の歴史」の解説の一部です。
「アラブの征服とビザンツ帝国による再征服」を含む「クレタ島の歴史」の記事については、「クレタ島の歴史」の概要を参照ください。
- アラブの征服とビザンツ帝国による再征服のページへのリンク