廃位とは? わかりやすく解説

はい‐い〔‐ヰ〕【廃位】

読み方:はいい

[名](スル)強要して君主をその位から去らせること。「奸臣に—させられる


退位

(廃位 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/14 22:04 UTC 版)

退位(たいい、英語: abdication)は、君主がその地位を手放すことである。対義語は即位。権力を手放すかどうかはケースバイケースである。しばしば譲位と混同されるが、その意味合いは異なる。


注釈

  1. ^ 1905年の国民投票によるスウェーデンとの同君連合の解消。
  2. ^ 辛亥革命による最初の退位
  3. ^ 張勲復辟後の再退位。
  4. ^ 1935年の国民投票により復位。
  5. ^ フランコ政権に成立した法律により、1975年のフランコの死によって君主制を復活した(この法律に定めた王位継承者はフアン・カルロス1世)。
  6. ^ ベネディクト16世の場合、教会法の規定は一貫して「辞任」という表記であり、厳密には退位ではない。また後継者は辞任後の選挙で決定され、指名は禁じられているので譲位でもない。よってここでは参考としての掲載である。詳細は教皇の辞任及びベネディクト16世の辞任を併せて参照。
  7. ^ 天皇が君主であるかについては議論が分かれる。
  8. ^ 南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に譲国の儀により三種の神器を引き渡すという和約であったが、譲国の儀などの条項は北朝朝廷により反故とされ、譲国の儀なしに神器が後小松天皇の手に渡っている。
  9. ^ 昭和59年4月17日の参議院内閣委員会における太田淳夫議員質問に対する山本悟宮内庁次長の答弁。
  10. ^ 天皇の退位等に関する皇室典範特例法第1条第2項
  11. ^ 天皇の退位等に関する皇室典範特例法第2条
  12. ^ 天皇の退位等に関する皇室典範特例法第3条
  13. ^ ただし、法の施行日(2019年4月30日)以前に第125代天皇・明仁が崩御するなどしてこの特例法が効力を失う可能性もあった(天皇の退位等に関する皇室典範特例法附則第2条)。

出典




廃位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/21 19:36 UTC 版)

アウィトゥス」の記事における「廃位」の解説

マヨリアヌスアウィトゥス帝の廃位後皇帝即位したリキメルモノグラム刻印されリウィウス・セウェルス帝青銅貨 一方イタリア住民の間では異邦人アウィトゥス帝に対す憤激高まっていた。アウィトゥス帝はその奢侈好色ローマ市民非難の的となったという。アウィトゥス帝は通常ローマ人充てられていた公職ガリア貴族任命した。これに加えて先年ローマ劫掠被害を蒙っていたローマ市民ヴァンダル族海上交通路支配により食糧不足にも苦しめられており、アウィトゥスとともにローマ入った異邦人兵たちの存在によってさらに悪化していた。国庫はほとんど空になっており、市民圧力によって西ゴート族護衛兵解散したが、アウィトゥス帝は彼らの給与支払いのために幾つも銅像を鋳潰さざるを得なかった。 民衆の不満、皇帝護衛兵解散そして自らの戦勝による人気勘案しリキメル将軍皇宮護衛隊長(comes domesticorum)マヨリアヌスアウィトゥス帝に反旗を翻した初秋アウィトゥス帝はローマからの退去余儀なくされて北へ逃れたリキメル元老院アウィトゥス帝の廃位とラヴェンナにいた軍務長官レミィストゥスの殺害命令をさせ、9月17日にレミィストゥスをパラティウムラヴェンナ古代の港クラッセ(英語版))で処刑したアウィトゥス帝は先年に故ペトロニウス・マクシムス帝の命令西ゴート族使節をした際の同僚だったメッサノスを新たな軍務長官任命し、兵を集めるためにガリア(ヒダティウスの年代記によるとアレラーテ)に赴いた。そして兵を率いてイタリア入り、プラケンティア(現在のピアチェンツァ)でリキメルの軍と戦った市内入ったアウィトゥス帝の軍隊10月17日18日リキメル大軍攻撃を受け、メッサノスと彼の部下虐殺されアウィトゥス帝は逃げ出した。捕えられたアウィトゥス帝をリキメル助命し、彼をプラケンティアの司教にした。 東ローマ皇帝レオ1世からパトリキ貴族)の称号与えられリキメル西方支配行い西ローマ皇帝はしばらく空位続いたが、457年4月1日マヨリアヌス軍隊によって皇帝に推戴され、蛮族出身皇帝はなれないリキメルもこれに同意したガリアアウィトゥス帝の支持者たちは廃位された後も依然として彼らの皇帝承認続けた。シドニウス=アポリナーリスはマルセリウスによって企てられクーデター失敗の話を伝えており、彼らの目的おそらくはアウィトゥス帝の復位であったヒスパニア在住していた同時代歴史家ヒダティウスによれば457年アウィトゥス帝の治世として数えられていた。廃位されアウィトゥス何を考えていたのかも、彼の死んだ日そして理由も明確ではなく幾つかの異なる話が伝えられている。 トゥールのグレゴリウスによれば元老院廃帝アウィトゥス死罪命じるとアウィトゥス郷里アヴァニアの聖ユリアヌス聖堂浄財集め名目ガリア逃れたが、その旅の最中死んだという。その他の史料廃帝彼の後継者マヨリアヌス帝)によって絞殺または餓死に至らしめられたとしている。アウィトゥスは廃位から間もない456年末か457年死去しブリウドの聖ユリアヌス墓所の隣に埋葬された。

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リチャード2世 (イングランド王)」の記事における「廃位」の解説

ランカスター公1399年死去したのを機会に、ボリングブルックに対して広大なランカスター公領没収永久追放への変更命じた。これにより貴族層の離反決定的になり、ボリングブルック復讐機会を窺った。そのような状況横目に5月リチャード2世アイルランド2度目遠征敢行した。1度服従したゲール人反乱起こし食い止めようとしたマーチ伯戦死したため報復鎮圧意図があった。 しかし、7月ボリングブルック兵を挙げると、ノーサンバランド伯父子ウェストモーランド伯ラルフ・ネヴィル北部貴族始めリチャード2世失望していた諸侯有力者多くがこれに合流留守守っていたヨーク公降伏した。翌8月アイルランド遠征から帰途にあったリチャード2世は、ウェールズとの国境付近優勢なボリングブルック軍に呆気なく降伏して捕らわれロンドン塔幽閉され9月28日開かれた議会で翌29日正式に廃位された。そしてボリングブルック30日ヘンリー4世としてイングランド王即位しランカスター朝開いた退位したリチャード身柄各地移され1400年2月14日ヨーク南西ポンテフラクトにあるポンテフラクト城(英語版)で33歳死去した1月リチャード重用されヘンリー4世即位と共に権勢失ったサリー公、元エクセター公、元グロスター伯トマス・ル・ディスペンサー、ソールズベリー伯ジョン・モンタキュートの4人が公現祭ヘンリー4世暗殺企て失敗して処刑されていたが、直後リチャード死去したこともヘンリー4世関与疑われている。 リチャードの詳しい死因不明で、前王尊厳奪われ過酷な処遇受けて餓死させられたと伝えられている一方自殺他殺説もある。遺体当初ハートフォードシャーのキングス・ラングリー修道院英語版)へ埋葬されたが、1413年4月即位したヘンリー5世12月遺体ロンドンへ運び出しウェストミンスター寺院改葬した。 捕縛されるリチャード2世15世紀作品) 廃位式(15世紀作品リチャード2世葬列15世紀作品

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アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチ (セルビア公)」の記事における「廃位」の解説

アレクサンダル国内政策めぐって議員らと対立し1858年12月聖アンデレの日に召集され国民議会において退位強いられた廃位されアレクサンダルテメシュヴァール近郊私有地退いたが、復位したミハイロ・オブレノヴィッチ3世暗殺されるとその陰謀武器資金提供した疑いかけられ平穏な暮らし一変したアレクサンダルいわれのない疑い傷心し濡れ衣を着せようとする政敵嫌悪するとともにカラジョルジェヴィッチ家人間による公位奪還尽力した1885年5月3日テメシュヴァール死去しウィーン埋葬されたが、1912年に、息子ペータル1世によって中央セルビアオプレナツOplenac)に建てられ聖ゲオルギオス記念教会改葬された。

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顕徳王后」の記事における「廃位」の解説

顕徳王后の母、阿只と王后の弟、自慎は成三問などとともに端宗復位運動をして1456年処刑されて、端宗1457年旧暦6月21日魯山君降格される。 一方もう死亡した顕徳王后とその父権専は、阿只と自慎の罪によって連座刑が下され専は1456年旧暦7月7日顕徳王后1457年6月26日それぞれ庶人になった

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