ロンドンへ
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「ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル」の記事における「ロンドンへ」の解説
1710年、25歳のヘンデルはステッファーニの後任としてハノーファー選帝侯の宮廷楽長となったが、ハノーファーには落ち着かず、ハレで年老いた母を訪れた後、デュッセルドルフに滞在し、その年の暮には初めてロンドンを訪れた。ここで書かれたオペラ『リナルド』は1711年2月14日に初演され、15回の上演を数える大成功となった。6月にオペラのシーズンが終わるとデュッセルドルフを再び訪れた後にハノーファーに戻った。 翌1712年11月には再びロンドンを訪れ、ハノーファーに帰る約束があったにもかかわらずそのままイギリスに住み着き、『忠実な羊飼い』(1712年)や『テセオ』(1713年)などのオペラを書いた。1714年のアン女王の死去に伴い、ハノーファー選帝侯がイギリス王ジョージ1世として迎えられることになるが、ヘンデルは2年以上もハノーファーを留守にしていたことを咎められることなく、新国王とは良好な関係を保った。1716年にジョージ1世はハノーファーに戻り、ヘンデルも久しぶりにハノーファーを訪れている。ロンドンに戻った後の1717年には、テムズ川での王の船遊びのために『水上の音楽』が演奏された。ロンドンのオペラはいったん下火になるが、ヘンデルは、後にシャンドス公爵となるジェイムズ・ブリッジズの住み込み作曲家として『シャンドス・アンセム』や仮面劇を作曲した。 1720年には貴族たちによってオペラ運営会社「王室音楽アカデミー」が設立され、ヘンデルはその芸術部門の中心人物となった。ヘンデルはアカデミーのために歌手と契約を結ぶために1719年にドイツを訪れた。バッハがヘンデルに会おうとしたと伝えるのはこの時のことだが、結局会うことはなかった。またアカデミーのための音楽の大部分はヘンデルが作曲し、『ラダミスト』『ジューリオ・チェーザレ』『タメルラーノ』『ロデリンダ』をはじめとするオペラが上演された。アカデミーにおけるヘンデルのライバルはボノンチーニであった。 1723年に王室礼拝堂作曲家に任じられていたヘンデルはジョージ1世の死の直前の1727年2月20日にイギリス国籍を取得し、ジョージ2世の戴冠式のために大規模な『戴冠式アンセム』を上演した。 しかしアカデミーの経営はずさんであり、カストラートのセネジーノ、ソプラノのフランチェスカ・クッツォーニ、メゾ・ソプラノのファウスティーナ・ボルドーニという3人のスター歌手に対する高額の報酬、およびクッツォーニとファウスティーナの争いもあってロンドンのイタリア・オペラは再び衰退していった。さらに1728年に上演された『乞食オペラ』は、すでに没落していたアカデミーに最後のとどめをさし、1728年6月1日にアカデミーは倒産する。 ジョン・ジェームズ・ハイデッガーとともにヘンデルはアカデミーを建て直し、イタリアを訪れて歌手と契約を結んでドイツ経由でロンドンに戻った。再建されたアカデミーでヘンデルはオペラ『インド王ポーロ』(1731)などで成功を収めたが、1733年にはライバルの貴族オペラが設立される。貴族オペラの作曲家はニコラ・ポルポラであった。さらにハイデッガーも1734年にはヘンデルと決別し、それまでアカデミーのオペラを上演していたヘイマーケット国王劇場を貴族オペラに引き渡してしまう。ヘンデルはコヴェント・ガーデン劇場に移るが、貴族オペラ側はアカデミーから歌手を引き抜いた上、有名なカストラートのファリネッリを迎え、アカデミー側は苦戦をしいられた。アカデミーと貴族オペラはともに1737年に倒産する。 ヘンデルは同年4月に卒中に襲われ半身不随となり、温泉治療のためアーヘンで夏を過ごした。奇跡的に回復した後は、再びハイデッガーと組んでオペラ『ファラモンド』や『セルセ』(クセルクセス)などの公演を続けるが、もはやロンドンでオペラが成功することはなかった。
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ロンドンへ
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1850年時点では、ミッドランド鉄道はまだ地方的な鉄道であった。エリスは、競合者からの攻撃を回避するためには、ミッドランド鉄道はさらに拡大しなければならないと気づいていた。まず最初の段階として、1853年にジェームズ・オールポートを総支配人に任命し、次にラグビーからユーストン駅までロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道に依存していることから独立しようとした。 ヒッチン(英語版)からキングス・クロス駅まで、グレート・ノーザン鉄道と共同で列車を走らせる法案は1847年に議会を通過していたが、この計画は進んでいなかった。この法案は、ロンドン・アンド・ノース・ウェスタン鉄道へ通じる支線が遅く信頼性に欠けるという問題を抱えていたベッドフォードの住民の支援と、ノーザンプトンシャーの鉄鉱山資源という情報を背景に1853年に再提起された。 新線はウィグストン(英語版)からマーケット・ハーバラ(英語版)まで、デスバラ(英語版)、ケッターリング(英語版)、ウェリングバラ(英語版)、ベッドフォード(英語版)を経由してヒッチンでグレート・ノーザン鉄道に合流しキングス・クロス駅まで走った。 これによりラグビーを経由する路線への圧力をいくらか緩和することができたが、グレート・ノーザン鉄道はミッドランド鉄道の旅客列車がこの経路でロンドンへ運行することは許可しようとしなかった。グレート・ノーザン鉄道は、ミッドランド鉄道からの乗客はヒッチンで下車して、わずかな時間の間に乗車券を購入して、ロンドンまでの残りの区間をグレート・ノーザン鉄道の列車に乗るべきだと主張したのである。しかしオールポートは最終的に、年間2万ポンドを保証することでミッドランド鉄道の列車をキングス・クロス駅まで運行する、グレート・ノーザン鉄道との7年間の契約を何とか結ぶことができた。 1860年までにはミッドランド鉄道はよりよい状態となり、新しい事業により積極的に取り組むことができるようになった。石炭および鉄、そしてバートン・アポン・トレント(英語版)から出荷されるビールの輸送は3倍に増加し、グレート・ノーザン鉄道と同様に旅客数も増加していた。グレート・ノーザン鉄道の路線上ではグレート・ノーザン鉄道自身の列車が優先権を持っていたため、ミッドランド鉄道の旅客列車は遅延する傾向にあった。最終的に1862年に、全国規模の鉄道にふさわしい独自のターミナル駅をロンドンに持つ新線を建設する決断が下された。 新線はベドフォードで分岐し、チルターン丘陵の谷をルートンで通過し、ハムステッド・ヒースを迂回してキングス・クロス駅とユーストン駅の間の地点でロンドンに到達した。 新しいセント・パンクラス駅は1868年に完成し、ジョージ・ギルバート・スコット 設計によるユーストン通り(英語版)に面した巨大なホテルと、ウィリアム・バーロー(英語版)設計による巨大な錬鉄製トレイン・シェッドを備えて、「ヴィクトリア朝ゴシック様式」の驚異的な建築として現存している。駅へ通じる路線は古い放棄されていた墓地を通過しなければならなかったので、建設は容易ではなかった。その下にはフリート川の地下河川が流れており、また本線から分岐した支線がその下に建設され、駅の下を急勾配で通り抜けて、今のユーストン通りとなっている場所と並行に走るメトロポリタン鉄道に接続するようになっていた。
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