スター歌手に
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その後は立て続けに松竹映画主題歌の「流転」、結城道子がソロでレコーディングする予定だった「裏町人生」と連続して大ヒットを続け、その素人くささの中に軟らかさを持った歌声が全国に流れた。この頃に秩父重剛の義妹・澄子と結婚、それを祝うかのように発売された翌年の「鴛鴦道中」は、新人・青葉笙子とのデュエットによりこれも大ヒットとなった。上原の快進撃はこの後も続き、「上海だより」「南京だより」「波止場気質」「徳利の別れ」「俺は船乗り」と1937年から1939年にかけては東海林を追い越す勢いで、ヒットを出し続けた。 「妻恋道中」をはじめとしたヤクザもの(股旅もの)に、「波止場気質」などのマドロスもの、「上海だより」に始まる“たより”もの、そして「流沙の護り」「聲なき凱旋」などの戦時歌謡という異なるジャンルの流行歌を上手く歌い分け、幅広いファン層を獲得していった。人気とともに銀幕への出演も多くなり、東宝映画「ロッパ歌の都へ行く」「金語楼の大番頭」、松竹映画「弥次喜多六十四州唄栗毛」「弥次喜多怪談道中」などに特別出演している。中でも「ロッパ歌の都へ行く」には本職の流行歌手として出演し、「親恋道中」を歌う上原のステージを偲ぶことができる。また、同じポリドールに所属していた榎本健一の舞台にも出演し、秋田なまりの朴訥とした台詞まわしで人気を博していた。 1938年3月から1942年まで、上原は中国大陸を戦地慰問のため通算7回訪れ、数多くの将兵の前で歌った。しかし、青葉笙子、山中みゆき、浅草染千代らと何度も戦地を慰問しては帰国後すぐにレコーディングを行うハードなスケジュールをこなした上原は徐々に健康を害し、多くの薬を常用するようになっていった。そのために、1941年にヒットした「仏印だより」の頃にはだいぶ声が荒れ、デビュー当時の軟らかな歌声は失われてしまっている。日米開戦後、勇壮な軍歌や叙情的な歌曲が中心となると上原が得意とした股旅歌謡は衰退、彼の歌い方も時局に合わなくなり人気も凋落していった。 性格は生真面目で、歌手というよりもサラリーマンのような質素な生活を続け、借家暮らしを通した上原であったが、いずれ歌手を廃業するつもりであったのか、千葉県で牧場を経営することを検討していたと妻が述懐している。酒好きで、後輩の面倒見も良かった上原は、誰からも「敏さん」と呼ばれて慕われていた。律儀な人柄でも知られ、1939年にコロムビアとテイチクが多額の支度金を用意して上原を引き抜こうとした際にも、「こうして歌手として成功したのもポリドールのお陰です」と全く応じることがなかった。
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スター歌手に
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1970年前後には、こうした青春ソング以外にも時代モノ、民謡調などの歌にも独特の持ち味で数々のヒットを飛ばした。テレビ時代劇『銭形平次』のテーマソング「銭形平次」も、番組のロングランもあって舟木の歌としてよく知られるところとなった。 また特に詩歌、文学をモチーフにした叙情歌謡と呼ばれるジャンルでは持ち前の歌唱を活かして第一人者的存在となり、「絶唱」「夕笛」「初恋」などがヒットし、1966年には「絶唱」で第8回日本レコード大賞歌唱賞を受賞した。このジャンルとしてはその集大成ともいうべきアルバム『その人は昔』がある。これは作家松山善三の長編抒情詩を正味1時間すべて舟木の歌唱で埋めるという、前代未聞の作品であり舟木の歌唱力が最大限に発揮されている。更にこの作品はLPとしては当時記録的な売上となり、後に舟木と内藤洋子の主演により映画化もされた。そしてこのLPおよび映画が劇画作家ながやす巧に大いなる影響を与え、その代表作『愛と誠』を生むきっかけとなった、という事実は、コミック界では有名なエピソードである。
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