スター技術者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 21:17 UTC 版)
1994年3月、中村は徳島大学大学院工学研究科に博士論文を提出して、博士(工学)の学位を取得した。同年、1993年に掲載されたダブルヘテロ構造についての向井、妹尾との共著論文が、応用物理学会の論文賞を受賞。翌年には妹尾、向井とともに櫻井健二郎賞も受賞する。さらに1996年には青-緑LEDと半導体レーザーの実績で大河内記念賞を向井、妹尾、長濱、岩佐とともに受賞する。また、1997年には妹尾、長濱、岩佐らとのInGaNレーザーダイオード(LD)に関する共著論文でも論文賞を受賞するなど、数々の賞を受賞する(詳細は「受賞歴」の節を参照)。 青色発光ダイオードが製品化されて以降、1994年頃から中村は国内外の学会などで多くの講演をこなすようになる。開発体制は大幅に増員され、研究開発の現場は中村なしで実用化に向けて発展を遂げていく。特にレーザーダイオードについては貢献が乏しかった。 なお、1998年11月に東京大学客員教授の誘いが来る。相談を受けた日亜化学常務の小山稔は引き受けることを勧めたが、中村は日亜化学から重要な技術情報が漏れることを恐れ、断る方針を伝えた。小山は中村の日亜化学に対する忠社精神を指摘するとともに、すでに重要な技術は研究の段階から生産現場へ移っていたことから、中村が現場における「“真の進歩”に気が付いていないのではないか」と思ったと回想している。 また、各種講演をこなす中で、中村は発明に対して得た報奨金が約2万円と語っており、それを聞いたアメリカの研究者仲間は絶句の後、低すぎる対価に甘んじているとして「スレイブ・ナカムラ」(スレイヴ=奴隷)とあだ名したという。しかし日亜化学はボーナスや昇給で上乗せをしており、同年代の社員と比較して1989年以降の11年間で総額6195万円になるといわれる。 中村はLED関係の開発に目途が立ち、研究テーマの観点からも日亜でやることがなくなりつつあった。また、1999年8月に科学技術振興機構(JST)のERATO「不均一結晶」プロジェクトの統括責任者候補に推薦され、小山をはじめとする日亜化学経営陣も引き受ける方針であったが、JST側の事情で流れてしまう。 中村はアメリカの企業や大学から多くのオファーを受け、「スレイブ・ナカムラでは耐えられない」という思いもあり、娘からの「もったいない」という言葉がきっかけで転身を決意する。1999年12月27日に日亜化学を退社。2000年2月、スティーブン・デンバース教授が誘ってくれたカリフォルニア大学サンタバーバラ校 (UCSB) ・材料物性工学科の教授に着任。同大学が半導体関係に強いのも一因という。
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