小原良節と喜代三と中山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 08:34 UTC 版)
「新橋喜代三」の記事における「小原良節と喜代三と中山」の解説
鹿児島小原良節の解説や、喜代三また中山の経歴でよく見られるのが「中山が『小原良節』を編曲して喜代三がレコーディングしヒットさせた」という記述である。 しかし、先に触れたように、喜代三をスター歌手に押し上げた1934年(昭和9年)にポリドールから発売されたレコードは三味線豊吉の三味線とポリドール管弦楽団による和洋合奏の伴奏(盤面クレジットは「ポリドール和洋管弦楽団」)で、「山田榮一編曲」となっている。山田はポリドールの専属で、喜代三のデビュー曲「わしゃ知らぬ」の作曲も担当し、その他東海林太郎の『すみだ川』なども作曲しヒットさせた作・編曲家である。現にこのレコードの編曲については音楽文化研究家の長田暁二が山田本人に取材し、「あの『小原良節』は喜代三さん、豊吉さんと私の合作です」との証言を得ている。 ここで問題となってくるのが「編曲」の定義である。一般にはオーケストラなどの複数パートを持つ楽団用に各パートのメロディーをアレンジする仕事を「編曲」と呼ぶが、民謡の「編曲」となるとまた意味が広くなってくる。本来読み人知らずである民謡を、歌い手や伴奏者が時代によって各々に改良することも「編曲」と見なされる場合があるからだ。 喜代三は鹿児島時代にも中山に『小原良節』の歌い方について相談をしており、また上京後も中山のもとへレッスンに通っていたことから、一緒になって工夫したことも十分に考えられる。現に残された一八の『小原良節』と喜代三のそれは部分的にメロディーが異なっている。それを「中山の編曲」とするのならば、「中山晋平編曲」説も間違いでは無い。 中山は生涯ビクター専属であったが、喜代三は中山の生前はポリドール専属であったため、中山がポリドール作品のオーケストラ用編曲をする事は無い。喜代三をポリドールへ入社させたのは、喜代三が自らの愛人であったため、存命だった中山の夫人への配慮と、自身の会社に所属させることを公私混同と取られる事を避ける為だったという。 また喜代三を新橋花柳界に紹介したのも、先に記した通り同郷人で東京で活躍していた俣野健輔らであり、中山が紹介したという説は間違いである。
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