ロンドンの劇壇進出とは? わかりやすく解説

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ロンドンの劇壇進出

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:36 UTC 版)

ウィリアム・シェイクスピア」の記事における「ロンドンの劇壇進出」の解説

1592年ごろまでにシェイクスピアロンドンへ進出し演劇世界身を置くようになっていた。当時は、エリザベス朝演劇興隆伴って劇場劇団次々と設立されている最中であったその中でシェイクスピア俳優として活動するかたわら次第脚本を書くようになる1592年にはロバート・グリーン著書三文知恵』("Greene's Groatsworth of Wit")において、「役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の、我々の羽毛着飾った成り上がりカラス近ごろ現われ諸君中でも最良書き手同じくらい優れたブランク・ヴァース自分紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋分際で、自分こそが国内唯一の舞台揺るがす者(Shake-scene)であると自惚れている」と書いており、他の作家から中傷されるほどの名声をこのときにはすでに勝ち得ていたことが知られている。 1594年終わりごろ、シェイクスピア俳優劇作家であると同時に宮内大臣一座英語版)として知られる劇団共同所有ともなっており、同劇団本拠地でもあった劇場グローブ座共同株主にもなった。当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団場合には宮内大臣英語版)の初代ハンズドン男爵ヘンリー・ケアリーがパトロンとなっていた。シェイクスピア所属変更同年の第5代ダービー伯ストレンジ卿)急死パトロン失ったストレンジ一座がハンズドン男爵引き取られ宮内大臣一座として再出発したからであり、シェイクスピア1593年出版した物語詩ヴィーナスとアドーニス』をダービー伯友人だったサウサンプトン伯爵ヘンリー・リズリー献呈、翌1594年にも『ルークリース凌辱』を献呈サウサンプトン伯信頼獲得新たなパトロン手に入れた。『恋の骨折り損』もこの頃作られと言われオックスフォード海軍大臣一座英語版)のパトロンである海軍卿英語版)のエフィンガムのハワード男爵チャールズ・ハワードペンブルック伯一座英語版)のパトロンであるペンブルック伯ヘンリー・ハーバート英語版)とサウサンプトン伯ストレンジ卿が会った出来事参考にした部分多く見られる。 しかし、サウサンプトン伯との繋がり災難もたらしたこともある。1601年2月8日サウサンプトン伯友人第2代エセックス伯ロバート・デヴァルーと共にエリザベス1世側近ロバート・セシル(後の初代ソールズベリー伯)らを排除するクーデター起こし失敗して捕らえられエセックス伯25日処刑された(共に捕らえられサウサンプトン伯は後に赦免)。エセックス伯一味シェイクスピア宮内大臣一座働きかけて金を支払いクーデター前日2月7日グローブ座で『リチャード二世』を上演させた。エセックス伯意図国王廃位され場面上演させ民衆扇動させようとした所にあったが、反乱失敗するシェイクスピア宮内大臣一座この上演とサウサンプトン伯の関係で立場危うくなり、政府取り調べ受けたお咎め無かった1603年エリザベス1世死去してジェームズ1世即位した際、この新国王が自ら庇護者となることを約束したため国王一座へと改称することになるほど、シェイクスピア劇団人気高まっていた。シェイクスピア著作からは、作中登場するフレーズ語彙演技について言及鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論欠いている。 高等教育欠いていたものの、シェイクスピア長らくジェントルマン地位求めていた。まだ裕福であったころ、シェイクスピアの父は紋章取得するために紋章院嘆願をしており、もし受理されればこの紋章息子であるシェイクスピア受け継ぐことになるものであった俳優シェイクスピアには紋章を得る資格がなかったが、ストラトフォード役人であり妻の生まれよかったジョン・シェイクスピア充分に資格備えていた。しかし一家財政が傾いていたためになかなか望み叶えることができなかったのである1596年にふたたび申請をはじめ、シェイクスピア家は紋章手にすることができた。おそらくシェイクスピア自身経済的に大きな成功収めていたためである。紋章記された銘は “Non sanz droict” (フランス語で「権利なからざるべし」)であったが、これはおそらく銘を考案したシェイクスピアある種守勢不安感示している。社会的地位や名誉の回復といったテーマ彼の作品プロットにおいて頻出するうになるが、シェイクスピア自分切望していたもの自嘲しているようである。 1596年にビショップスゲイトのセント・ヘレン教区転居1598年グローブ座初演されベン・ジョンソンの『十人十色英語版)』では、出演者一覧最上段にシェイクスピアの名前が記載されており、俳優としての活動も盛んであったことが見て取れる。また1598年ごろから、それまで匿名のまま刊行されることが多かったシェイクスピアの四折判のタイトル・ページ著者名記されるようになったが、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気確立していた事が窺われるシェイクスピア国王一座上演する戯曲多く執筆したり、劇団株式共同所有者として経営関与したりするかたわら俳優業継続して『ハムレット』先王幽霊や、『お気に召すまま』のアダム、『ヘンリー五世』のコーラスなどを演じたといわれるシェイクスピア1599年内にテムズ川渡ってサザックへ転居しと見られる1604年には家主の娘の仲人務めた。この娘の結婚原因1612年起きた裁判記録シェイクスピアの名前が登場する。この文書によると、1604年シェイクスピアユグノー髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いであったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚望み持参金委細について交渉してくれるようシェイクスピア仲介頼んだシェイクスピア保証により2人結ばれたが、8年経って持参金一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟起こしたのである。この裁判において証人としてシェイクスピア召喚されたが、シェイクスピア当時の状況に関してほとんど覚えていなかった。 法的問題商取引についての様々な公文書によると、ロンドン在住中にシェイクスピア大きな経済的成功収めロンドンのブラックフライヤーズの不動産や、ストラトフォード2番目に大きな邸宅ニュー・プレイス購入するまでになっていたことが分かる

※この「ロンドンの劇壇進出」の解説は、「ウィリアム・シェイクスピア」の解説の一部です。
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